ソ連空母建造前史5〜プロジェクト85・PBIA

ソ連空母建造前史4
 10ヶ年艦隊整備計画で空母導入が否定された事に続いて、ソ連の空母にとっては不幸なことに最大の後ろ盾であったニコライ・クズネツォフが失脚するという出来事が1947年に起こった。1939年4月28日に海軍人民委員に就任して以来強力に空母導入を推進してきた彼であったが、1947年1月にスターリンによって国防次官および海軍総司令官の任を解かれ、12月19日の軍法会議で海軍元帥から海軍中将へと降格されてしまう。しかし1951年7月にスターリンはクズネツォフを元のポストに戻し彼の発言力も回復した(元帥への復帰はスターリン死後となる)。彼は役職に戻るやいなや空母に関する問題を提起し、新たな設計案を放った。それがプロジェクト85である。
プロジェクト85はスターリンの死後〜1950年代前半の間に纏められた設計案で、クズネツォフが提案した最後のソ連海軍向け空母でもある。1954年末までに武器造船中央研究所(ЦНИИВК)でプロジェクト85の予備設計が完了した。規模としては搭載機数40機の防空用軽空母であるがソ連初の蒸気カタパルトとアングルドデッキを備える時代相応の設計を取り入れた意欲作で、その設計には多くの実験的要素や最新の研究成果が取り入れられた。クズネツォフが1954年に作成させた1956年〜1965年造船プログラムでは太平洋艦隊と北方艦隊向けに5隻から10隻の建造が盛り込まれ1960年〜1965年には海軍に引き渡される予定であったが、空母建造に対する実現可能性を危ぶむ声は根強く存在していた。何せ空母を建造するには多くの資金を用意しなければならないが、そうなると外部からの横槍や海軍内部での批判を招くことは必至である。そうこうしてるうちに1955年にジューコフ海軍元帥との確執によって再びクズネツォフは海軍総司令官の任を解かれ、1956年には再度の海軍中将への降格と共に海軍で働く権利を剥奪されてしまった。このクズネツォフ2度目の失脚と後に海軍総司令官・国防次官の後任に就くことになるセルゲイ・ゴルシコフの方針によって空母建造は撤回されプロジェクト85の計画は1955年12月に完全に中止された(余談になるがプロジェクト85中止時のゴルシコフの役職は海軍第一副総司令官であり、海軍総司令官就任前である)。なお、クズネツォフがプロジェクト85を提案してる間にMiG-15を22機ほど搭載するさらに小型の空母を構想したという話もあるようだ。

(↑プロジェクト85)

 プロジェクト85の諸元は以下の通り。基準排水量23400トン・常備排水量28400トン・満載排水量29470トン。全長260m・全幅41m・設計喫水線長235m・設計喫水線幅25.6m。全高(艦上構造物除く)22.5m・満載排水量時の喫水8.3m。飛行甲板の大きさは全長250m・全幅31m。格納庫の大きさは全長250m・全幅21.5m・全高5.75m。最大速力31.4ノット・経済巡航速度18ノットで航続距離5000マイル・連続行動時間20日。乗組員は1850人。装甲は舷側90mm〜70mm・集中防御区画(115.5m)70m・操舵室70mm?50mm・飛行甲板20mm?10mm・格納庫および燃料タンク10mm。航空機は戦闘機(MiG-19K)40機・ヘリコプター(M1-1)2機。航空艤装として蒸気カタパルト2基・アレスティングワイヤー8基・緊急バリヤー1基・エレベーター2基。エレベーターは18m×10mの大きさで20トンまでの荷物を昇降させることが出来る。備蓄ジェット燃料は760トン・備蓄航空弾薬は79トン。砲熕火器は100mm連装両用砲8基・57mm4連装機関砲6基・25mm4連装対空機関砲4基を備える。100mm砲は2基のСВП-42GFCS(プロジェクト42駆逐艦にも搭載されたもの)と4基のПарус-Бレーダーによって、57mm機関砲は4基のФут-Б射撃管制レーダーによって管制される。捜索レーダーは長距離対空レーダー1基・高角測定レーダー2基・早期警戒レーダーПарус-Н 1基を搭載する。電子戦装置としてESMステーションБизань 3基・電子妨害ステーションКраб 4基を搭載する。ソナーはГеркулес-2を搭載する。

 艦載機としてMiG-19が挙げられていることからわかるように、プロジェクト85はおそらくソ連初のジェット機を前提に設計された空母でもあった。クズネツォフがまだ海軍総司令官のポストにあった1955年4月、彼はフルシチョフに空母のことをアピールすると共にヤコブレフ・ミコヤン・スホーイにプロジェクト85への協力を求めており、ジェット時代の空母と艦載機について模索していたのであろう。戦闘機については当時最新鋭のMiG-19の転用を考えていたが、攻撃機については既にキャンセルされていたTu-91より具体的なものは存在していなかったと思われるので将来的には特にその点で協力を仰ぐ必要が有ったのではないだろうか。このTu-91は米海軍に対抗しうる海軍を建設するための一環として空母向けの攻撃機として設計されたもので、その要求はもとはと言えばスターリンが出したものであった(10ヶ年艦隊整備計画時代の空母計画と関連して開発を指示した)。単発のターボプロップ機だが二重反転プロペラや並列複座など珍しい特徴を備えた機体であるものの、スターリンの跡を継いだフルシチョフとクズネツォフの跡を継いだゴルシコフは空母建造に乗り気ではないのでスターリン死後に陸上機へと転換され、アイデンティティを1つ早速失うことになる。飛行性能自体は良好で1955年5月17日に初飛行を迎えたが、雷撃を想定しているなどミサイル時代に突入しつつ有る1950年代中盤には既に時代遅れ感が否めず、最終的にフルシチョフがTu-91を”撃墜”してしまった。Tu-91については英語版Wikipediaに諸元が記載されているので参照されたい。


 巨大な砲装型水上戦闘艦の取得を目指したスターリンが消え海軍総司令官の地位にクズネツォフが舞い戻った環境の中で進められ、障害はないかに見えたプロジェクト85が中止されてしまった理由は大きく分けて3つ挙げられる。1つ目がソ連海軍の方針転換、2つ目が戦術的状況の変化、3つ目がフルシチョフの潜水艦・ミサイル志向である。
 1つ目の方針転換は、失脚したクズネツォフの後任であるゴルシコフが取り立てて空母を推進していた訳ではないという点に象徴的に現れている。クズネツォフは空母によって艦隊に航空機の傘を提供し安全を確保することを重要視していたが、ゴルシコフは潜水艦の大量建造で米空母を筆頭とする西側海軍戦力に対抗するというフルシチョフの意向に配慮し、また空母を取り立てて重視してはいなかった。加えて、冷戦最初期こそソ連海軍は米空母及び米重巡を目標に絞り対水上戦を重視していたものの戦略原潜の出現に従い1961年に正式にドクトリンを対潜戦重視へと転換している。
 2つ目の戦術的情勢の変化はゴルシコフの方針を裏付けるものでもあるが、ソ連に限らない当時の一般論として核兵器の台頭で水上戦闘艦の地位と生存性が大きく低下させられたという事である。平時のデモンストレーターとしての大型艦が実戦でも主力となるかは地理環境や周囲の海軍力にもよるが、従来であれば大きければ大きいほど”強い”とされた水上戦闘艦核兵器の前ではその優位を失った。アメリカによるクロスロード作戦では核兵器の威力に対して戦艦や重巡洋艦は意外なほどの生存性を見せたが、彼らの継戦能力が健在であっても核攻撃後に艦隊全体が十分な継戦能力を保持できるか否かという問題が有る。またミサイルの登場によって潜水艦は陸上へ実用的な火力投射が可能になったが、核兵器をミサイルに組み込むことによって敵に察知される事無く忍び寄り破壊的な一撃を齎すことが可能になり、これは大量破壊兵器時代の戦争として当時予測された「核の一撃ですべてが決まる」という将来の戦争の形態に従来型の海軍よりも適したものだと思われたことも潜水艦側に有利に働いた。ソ連固有の事情としては空母を帝国主義の尖兵と批判したスターリンの影響の残滓や米海軍は既に大量の空母を保有しており今更ソ連がゼロから空母建造を始めたところで対抗できるかどうか不明であるといったことなどがあり、これも無視することは出来ない。
 3つ目のフルシチョフの潜水艦・ミサイル志向は以上2つの要因の原因であり、背景に存在する時代の趨勢を反映した結果大型水上戦闘艦の意義に疑問をいだいた。

 言うまでもなく核兵器の登場は戦争に大きな影響を与えた。例えばハロルド・ジョージの戦略爆撃理論による戦勝体験を得たアメリカでは戦略爆撃核兵器の組み合わせは正に鬼に金棒で、後に設立された空軍の派閥抗争を戦略爆撃機核兵器そして空中給油機を擁する戦略航空軍団が圧倒的優位で制し、その機動力で開戦劈頭に敵国中枢を破壊し単独で戦争に勝利するところま到達できるということで四軍のなかでもっとも重要な地位を空軍が占めた。ソ連ではジョージの戦略爆撃理論を会得するには至らなかったが、ICBMを手にすることには成功している。その奇襲性は戦略爆撃機を遥かに上回り、核兵器との組み合わせは鬼に金棒ならぬ”鬼にチタン棒”である。主力と考えた運搬手段に差はあれど大量破壊兵器超大国双方が保有する時代に突入し、米ソは通常兵器運用のドクトリンも再考せざるを得なくなった。
 1950年代前半のアメリカでは、国の威信の発露としての役割と他国と交戦する代表的な戦力としての役割を核兵器爆撃機を持つ空軍に奪われ、海軍はそのプレゼンスを縮小していた。一方ソ連では元から海軍は陸軍の補助に甘んじていたが、核兵器とミサイルによってますます存在を小さくしていたのである。面白いことに米ソ両国で海軍は軽んじられていたのだがその内情は両者で若干異なり、アメリカでは核兵器の運搬手段として戦略爆撃機と空母が比較された過程で戦略爆撃機に軍配が上がりかけるも論争が紛糾し、最終的には空母と海軍がある程度復権する*1が、ソ連での論争で問題になったのは運搬手段ではなく海軍という組織そのものであった。「核兵器で戦争の決着がつくのであれば大型艦を揃えた海軍など不要」という出発点はアメリカもソ連も同じだが、アメリカではひとまずは予算を食う大型空母がやり玉に上がる程度で済んだ*2のだがもとより海軍の影響力が小さかったソ連では「核兵器を使った戦争に海軍は不要なのだから、必要最小限の小型艦艇と潜水艦を主力にしてしまえ」という考えに行き着いてしまった。この考えを支持していたのが時の指導者フルシチョフである。
 フルシチョフは1960年1月に「わが国は強力なロケット兵器を持っている。空軍や海軍は軍事技術の今日の発展において従来の意義を失ってしまった。この型の兵器は縮少されるのではなく、代替される。」「海軍において重要なのは潜水艦隊である。海上艦隊は過去に果たした役割をもう果たすことはできない」と演説している。ここから読み取れる彼の考えが2つあり、一つは「ミサイルは空軍や海軍が装備した従来の兵器に取って代わるもので、単に新たに加えられるものではない」という考えで、もう一つは「ミサイルと核兵器の時代に海軍が装備すべきは潜水艦である」という考えだ。この様にフルシチョフ核兵器を抜きにしてもミサイルを重要視したが、ミサイルのプラットフォームについては潜水艦を高く評価する一方で水上戦闘艦を非常に冷淡に評価している。もっとも、敵に察知されること無く近づき核による破壊的一撃を見舞うことの出来る潜水艦と比べると、水上戦闘艦があまりに脆弱で無意味に見えたのも仕方がないかもしれない。

(↑キンダ型)
 フルシチョフによって海軍総司令官に任命されたゴルシコフは海軍軍人としての矜持(あるいは単なる”旧時代”の海軍への憧憬・固執)からかフルシチョフのミサイル・潜水艦偏重の方針に従い*3ながらも水上戦闘艦の重要性をアピールする努力を欠かさず、フルシチョフ政権末期には造船所を訪れたフルシチョフをして「ナウい水上戦闘艦だった(意訳)」と言わしめたという。この時の「現代の海軍の発展と軍事科学技術における近代的な発展に完全に適合している艦船」という彼のセリフと時代からして恐らく見学したのはキンダ型巡洋艦だったと思われるが、このキンダ型はミサイルを主兵装に据えたソ連初の巡洋艦フルシチョフ好みなのは間違いないが、それでもフルシチョフはキンダ級を実戦用ではなく砲艦外交等のデモンストレーション用として捉え16隻の建造予定があったにも関わらず4隻の建造しか許さないという潜水艦主義の徹底ぶりである。しかしキンダ型こそがこの後のソ連大型水上戦闘艦の基礎となる重要なマイルストーンであり、冷戦期のソ連海軍発展の先鞭をつけたのである*4
 こうして首の皮一枚繋がった巡洋艦だが、空母の首の皮は繋がらなかった。元からソ連海軍は潜水艦を多数運用していたところにフルシチョフの潜水艦主義・ミサイル主義が現れ、原子力潜水艦とミサイルの組み合わせはソ連海軍の方向性を決定づけてしまう。クズネツォフがスターリンと戦いながら空母導入を目指したようにゴルシコフはフルシチョフと戦いながら大型水上戦闘艦を守ったが、対空対艦対地に使える上に既存のプラットフォームを流用できるミサイルの前には巨額のコストを必要とし経験に乏しい空母は明らかに分が悪く、ゴルシコフ自身もクズネツォフほどの熱烈な空母推進派ではないことが災いした。1945年の10ヶ年艦隊整備計画を思い起こしていただきたいが、当時の特別委員会は空母の利点について「航空戦力の効率的な海上への投射」「艦隊に常時防空の傘を提供できる」という点を挙げている。しかしこれらはミサイルによって100%とは言わなくてもある程度担えると言え、水上艦隊が復活しても空母の復活とまではいかなかった。

 ちなみにフルシチョフ政権中の情勢だが、ソ連は1953年に水爆実験を成功させ、1955年にはソ連初の原潜であるノヴェンバー型の建造が始まり、これらの要素に第二次大戦中にV1を参考に初めた研究がルーツの巡航ミサイルを追加したエコー1型巡航ミサイル原潜の設計をルビーン設計局に発令したのが1956年といった具合となっている。


 フルシチョフとゴルシコフのタッグによって表舞台から葬られた空母であるが、水面下では依然として動きが見られた。
 1959年から1960年にかけて中央軍事造船研究所と第17設計局は”戦闘航空洋上基地”(PBIA)の設計を行った。これは空母の隠語で、ミサイル・潜水艦主義を採るフルシチョフ政権下という政治的理由から表立って空母という単語が使えないためにこの様な言葉が使われていた。PBIAコンセプトに関する研究は中央軍事造船研究所が初めたものだが後に第17設計局も参加する。第17設計局は後のネヴァ設計局の前身であり、ネヴァ設計局はアドミラル・クズネツォフの設計を担った組織であるとともに彼らはソ連海軍の航空機搭載艦艇に深く関わることになるがそれはしばらく後のお話。第17設計局は中央軍事造船研究所のPBIA案を最終的に3万トンまで大型化させ、原案でディーゼルとされていた機関を従来の蒸気タービンに変更するなどの手を加えたが、PBIAコンセプトへの理解と支援を軍事産業から取り付けることが出来ずまたフルシチョフ時代の政治から支援も得られないため、プロジェクトの推進力に欠け空母設計の習作のような地位で終わってしまう。
 PBIA中央軍事造船研究所案の諸元は以下の通り。全長250m、喫水線長230m、全幅45m、喫水線幅25m、喫水7.4m。基準排水量2万トン、常備排水量2万1千トン、満載排水量2万2千トン。最大速力31.5ノット、経済巡航速度24ノット(些か速すぎる気がするが)。24ノットでの航続距離は4000マイル。固定ピッチプロペラを備えた3軸推進で、機関は2万馬力のディーゼルエンジン×6。武装はAK-725 57mm連装機関砲8基。航空艤装としてカタパルト2基とエレベーター2基を備える。6.5度のアングルドデッキを持ちハンガーの高さは6.5m。搭載機は戦闘機24機、AEW2機、救難ヘリ2機。
 PBIA第17設計局案の諸元は以下の通り。全長254m、喫水線長230m、全幅50m、満載排水量3万トン。最大速力32ノット、経済巡航速度18ノット。18ノットでの航続距離は5000マイル。推進機関は蒸気タービンに変更されている。武装はAK-726 76.2mm連装砲4基と近接防空用のミサイル。航空艤装としてカタパルト2基とエレベーター2基を備える。搭載機は戦闘機30機、AEW4機、救難ヘリ2機。

(↑PBIA第17設計局案)


 このPBIAだがプロジェクト85に続いてまたしてもミサイルに敗れることになる。この当時のソ連海軍を取り巻く事情を見てみよう。
 1957年に世界初のICBM R-7の発射に成功しソ連アメリカに先んじてICBMを手に入れるが、最初の部隊が戦闘能力を獲得したのは1959年2月になってからであった。その間にもアメリカは短射程の核弾頭を備えた弾道ミサイルを着々とソ連周辺の同盟国に配置しており、1959年には同国初のICBM アトラスの実用化にこぎつけていた。アメリカにはソ連周辺の有力な同盟国が多数ありそこに比較的短射程の弾道ミサイルを配備できたが、アメリカの近くのソ連友邦は限られ(その限られた有力な国があのキューバであった)同じ手は使えないため敵国中枢に対する実質的なミサイル戦力では西側に遅れを取っていた。そんな中アトラスと同じく1959年に登場した核戦力がSLBMポラリスジョージ・ワシントン戦略原潜である。
 同時期にソ連はホテル型戦略原潜(プロジェクト658)を建造していたが、搭載するR-13ミサイルの射程は600kmと短い上に3発しか搭載できない。その上発射の際には浮上する必要があり、洗練されたジョージ・ワシントン級とは比べ物にならないものである。陸上配備弾道ミサイルのギャップに加えSLBMギャップも大きいことはソ連にとって痛手であるが、ともかく海中を密かに移動し比較的遠距離からソ連本土を攻撃できるジョージ・ワシントン級は大きな脅威でありなんとしてもポラリス発射前に探し出して撃沈せねばならなかった。
 従来通り本土近くで敵を迎撃するという海軍ドクトリンに従い近海に対潜部隊を配置するのであれば陸上の航空機で援護可能であるが、本土から離れた海域の戦略原潜を探すには対潜部隊も遠洋まで進出する必要があり陸上基地の覆域から離れざるを得ない。敵の攻撃が激化することが予想される一方で味方の援護が期待できないためASWチームには防空能力が必須となるが、ソ連には空母が無いため対潜艦プロジェクト1144とペアを組みミサイルで防空を担う防空巡洋艦プロジェクト1126が1959年ごろから設計された。プロジェクト1126によって対潜部隊は空母無しに経空脅威から身を守ることが出来、遠洋での有効な行動が可能となるという寸法である。PBIAの建前としてはプロジェクト1126の補完があったようだが、公式な番号が与えられていない時点でその扱いはお察しだ。なおプロジェクト1126の防空システムM-3は第17設計局が担当している。
 ちなみにこの対潜艦プロジェクト1144は後のキーロフ級の前々身であり設計番号も同じものが与えられている。1126と1144は共に原子力推進の重厚長大な艦であったが、1126は搭載する防空システムに多くの技術的問題を抱えたため「より有望な艦に集中投資する」という政府の判断により1961年に破棄が破棄され、1126の代わりに計画された打撃型の原子力巡洋艦プロジェクト1165と対潜艦1144が合流し1971年にキーロフ級の直系の祖先であるプロジェクト1144となるが、各々の1144という数字は決して何かの間違いではなく同じ数字が受け継がれている。しかし実質的に対潜艦1144とキーロフ級系1144は別物と言えるだろう。

(↑プロジェクト1126)
 参考までに、この当時のソ連の代表的な水上戦闘艦カニン型(プロジェクト57bis)・カシン型(プロジェクト61)・クレスタ1型(プロジェクト1134)など。対潜型1144はクレスタ2型の能力向上・原子力推進版としての位置づけで、またカシン型はASWチームの一員としての対潜能力とある程度の防空能力を備えている。

【参考】
ロシアの空母:6つの忘れられた計画
PBIA暫定設計
プロジェクト1126

*1:所謂”提督たちの反乱”があったのがこの時期

*2:議会など公的な場ではそうなのだが、非公的な場では海軍不要論も当然言われたりしていた

*3:このため親空母派のマニアからは「時の指導者に唯々諾々と従いそのポストを守ることだけを考えた俗物」呼ばわりもされることもあるが、流石にあんまりだと思う

*4:例えばクレスタ各型はキンダ型がベースであるし、大型水上艦のポストを守れた意義も大きい