ソ連空母建造前史2〜航空戦艦/プロジェクト71/プロジェクト72

ソ連空母建造前史1
 イズマイル改造案からコムソモーレツ改造案に至るまでの最初期の一連の空母建造計画の次に訪れた空母保有の機運は、1930年代の海軍力増強計画の策定であった。
 1938年〜1942年の第3次五カ年計画と関連して1930年代にソ連は海軍力増強のため赤色海軍参謀オルロフ・ウラジミール・ミトロファーノヴィチルディー・イワン・マルティノーヴィチの主導で大規模外洋艦隊整備計画を画策したが、その計画では赤色海軍は重点的に戦艦と重巡洋艦を整備する一方で空母も導入することになっており、6隻の空母を建造して4隻を太平洋艦隊・2隻を北方艦隊へ配備することが想定された。しかし最終的に空母は2隻(北方艦隊1隻、太平洋艦隊1隻)のみ建造に修正されることになる。根本的には1940年に大規模外洋艦隊整備計画が縮小されたことが原因だが、他の理由としては赤軍(陸軍)重視のソ連において空母が”洋上劇場”とみなされまたスターリンは空母より戦艦や重巡洋艦を重視した事と、赤色海軍は空母の護衛艦や艦載機を必要としており多数の空母建造はそれらの整備に支障をきたすと考えられた事が挙げられる。それでも1937年には国防人民委員部によって空母建造が承認され、第3次五カ年計画に従った1930年代中頃からの空母建造計画はこの枠組の中で実施されることになる。


(↑航空戦艦1935年案)
 この頃のソ連航空母艦と戦艦のハイブリッド型―いわゆる航空戦艦(あるいは航空巡洋艦)―を構想しており、その第一弾として1935年に航空戦艦の暫定計画が策定された。この航空戦艦は29,800トンの排水量を持ち、21万馬力の機関出力で35〜39ノット(!)を発揮するとされた。砲熕兵器として9門の305mm砲と16門の130mm砲および18門の45mm機関砲を有し、60機の艦載機を搭載できる。側面装甲は最大200mm、水平装甲は最大125mmとされた。しかしこれらの要求性能は明らかに過酷なものであり、特に装甲と速力の両立は極めて困難と言っても過言ではない。ソ連造船業界がこの様な艦船を建造することが不可能であることはすぐに明らかになり、航空戦艦のコンセプトに対する疑念も生まれた。

(↑プロジェクト10581 C案)
 1937年からアメリカでソ連のための航空戦艦が開発された。これは駐米ソ連大使の求めに応じて行われたものだとされる。アメリカで設計されたもののうち最も興味深いのがプロジェクト10581で、A・B・Cの3つの設計案が存在した。プロジェクト10581はギブス・アンド・コックス社が設計したものだが、この会社はこの種の艦船―おそらく空母―を設計した経験がなかった。このプロジェクト10581はとても贅沢な艦で、なんと排水量は7万3千トンに達し約30万馬力の機関出力で34ノットを発揮した。主砲も8門の457mm砲ないし12門の406mm砲を装備するといった具合で、副砲の類に至っては28門の127mm砲と32基の28mm機関銃を有するという壮大な計画である。艦載機は各種合計36機と水上機4機を搭載し、発艦の為に飛行甲板前方に2基のカタパルトを設置する予定だった。
 しかしこの設計は主砲塔や上部構造物が飛行甲板と空気的に干渉して大きな乱流を発生させて発着艦に支障をきたすことが明白であり、しかも最も現実的なC案でもその性能や規模は赤色海軍が導入するのに適当であるとは言いがたかった。そして最終的にソ連は航空戦艦の導入を断念することになった。この種の設計はそれが計画であるうちは優れているように見えるが、実際に建造することを考える段階になると上述の乱流の問題や費用の問題そして戦闘時の安定性の問題(空母と違い航空戦艦は最前線で戦わないと意味が無いがそうすると飛行甲板の機能を喪失する可能性が高くなる...発見されると高価値目標なので優先的に攻撃される...などと言った点)が存在していることが判明し、あまり賢明ではないと考えられるようになった為である。
 


 航空戦艦が芳しくない結果を残した一方で1939年4月28日に海軍人民委員に就任したニコライ・クズネツォフは大いに空母導入を支持していた。また1939年〜1940年に行われた対外貿易人民委員によるドイツ視察では空母グラーフ・ツェッペリンの建造現場を訪問し、ドイツ側に拒否されたもののグラーフ・ツェッペリン購入もしくは同型艦ソ連売却の打診を行っており、ソ連の空母保有の機運は決して衰えてはなかった。しかしスターリンはソビエツキー・ソユーズ級の様な大型戦艦の整備に意欲を燃やしておりクズネツォフは彼の方針と対立しながら空母導入を目指さなければならなかった。それでも冒頭で述べたとおり1940年以降においても空母2隻(北方艦隊1隻、太平洋艦隊1隻)の建造は健在であり、クズネツォフは北方造船所にプロジェクト71と呼ばれる空母の設計を命じた。

(↑プロジェクト71)
1938年6月27日に赤色海軍は北方造船所に対して軽空母プロジェクト71の設計案に対する戦術的・技術的要求を出し、1939年半ばには予備設計が完了した。これは赤色海軍とソ連造船業界にとって適切な規模と性能のものだった。プロジェクト71はコムソモリスク・ナ・アムーレの第199造船所で1番艦が建造されることが決定し1942年には起工されるはずであったが、大祖国戦争に突入したため計画は実行されなかった。ちなみに1938年〜1939年版のジェーン海軍年鑑ではプロジェクト71とほぼ同諸元の艦を空母クラースナヤ・ズナーミャと紹介し、1939年〜1940年にレニングラードで2隻が起工されると記載していた。
 プロジェクト71の諸元は次の通り。排水量10600 トン(ないし11350トン)で、全長195m・全幅18.7m。飛行甲板の大きさは全長215m・全幅24m。戦闘機20機と攻撃機10機の合計30機を搭載する。最大速度は34ノットであり経済巡航速度18ノットで3800マイルの航続距離を有する。装甲は舷側100mm〜75mm・飛行甲板90mm(?)〜12mm・艦橋50mm・格納庫12mm。砲熕火器として100mm両用砲8門・37mm4連装機関砲4基・12.7mm機関砲12門を備える。カタパルトを装備しているが、使用するのは悪天候か最大ペイロードで発艦する場合のみとされていた。


(↑プロジェクト72)
 大祖国戦争中の1944年に大戦の戦訓を反映した艦艇の設計をするように政府が要求を出し、1945年にはクズネツォフ主導のもと海軍人民委員部が設置した特別委員会で10ヶ年艦隊整備計画(1946年〜1955年)に備えた各種検討が行われることになったが、この対象に空母も含まれたことで再び保有のチャンスが訪れた。この計画において特別委員会は正規空母および軽空母を合計6隻建造することを提案したが認められず、潜水艦・駆逐艦巡洋艦を中心とした艦隊整備の方針が立てられた。
 プロジェクト71やグラーフ・ツェッペリンの経験をもとに大祖国戦争中にも空母研究は行われており、上述した特別委員会による空母設計とは別に1944年にЦНИИ-45でプロジェクト72という設計案が纏められた。しかし最終的にプロジェクト72は要求を満たしていないと判断された上に赤色海軍は空母の必要性を一応は認めていたものの(この時点に限ったことではなく戦前もそうであったが)空母に関する上層部の意思統一が図れず、最大の空母支持者であったニコライ・クズネツォフも1947年に失脚してしまい結局プロジェクト72は建造されなかった。
 プロジェクト72の諸元は以下の通り。基準排水量23700トン・満載排水量28800トン。喫水線長224m・喫水線幅27.9m。喫水は基準排水量時が7.23m・満載排水量時が8.45m。搭載機数は全30機。最大速力30ノット・経済巡航速度18ノットで航続距離10000マイル。装甲は舷側90mm・格納庫55m・飛行甲板30mm。砲熕火器は130mm連装両用砲8基・85mm連装両用砲8基・37mm連装対空機関砲12基・連装23mm対空機関砲24基を備える。



ソ連建造前史3
【参考】
戦前のソ連空母〜実現しなかった計画たち
livejournal
ソ連の空母開発1925年〜1955年
ソ連空母プロジェクト71とプロジェクト72
(ソ連の空母〜歴史と戦闘での使用)