ソ連空母建造前史5〜プロジェクト85・PBIA

ソ連空母建造前史4
 10ヶ年艦隊整備計画で空母導入が否定された事に続いて、ソ連の空母にとっては不幸なことに最大の後ろ盾であったニコライ・クズネツォフが失脚するという出来事が1947年に起こった。1939年4月28日に海軍人民委員に就任して以来強力に空母導入を推進してきた彼であったが、1947年1月にスターリンによって国防次官および海軍総司令官の任を解かれ、12月19日の軍法会議で海軍元帥から海軍中将へと降格されてしまう。しかし1951年7月にスターリンはクズネツォフを元のポストに戻し彼の発言力も回復した(元帥への復帰はスターリン死後となる)。彼は役職に戻るやいなや空母に関する問題を提起し、新たな設計案を放った。それがプロジェクト85である。
プロジェクト85はスターリンの死後〜1950年代前半の間に纏められた設計案で、クズネツォフが提案した最後のソ連海軍向け空母でもある。1954年末までに武器造船中央研究所(ЦНИИВК)でプロジェクト85の予備設計が完了した。規模としては搭載機数40機の防空用軽空母であるがソ連初の蒸気カタパルトとアングルドデッキを備える時代相応の設計を取り入れた意欲作で、その設計には多くの実験的要素や最新の研究成果が取り入れられた。クズネツォフが1954年に作成させた1956年〜1965年造船プログラムでは太平洋艦隊と北方艦隊向けに5隻から10隻の建造が盛り込まれ1960年〜1965年には海軍に引き渡される予定であったが、空母建造に対する実現可能性を危ぶむ声は根強く存在していた。何せ空母を建造するには多くの資金を用意しなければならないが、そうなると外部からの横槍や海軍内部での批判を招くことは必至である。そうこうしてるうちに1955年にジューコフ海軍元帥との確執によって再びクズネツォフは海軍総司令官の任を解かれ、1956年には再度の海軍中将への降格と共に海軍で働く権利を剥奪されてしまった。このクズネツォフ2度目の失脚と後に海軍総司令官・国防次官の後任に就くことになるセルゲイ・ゴルシコフの方針によって空母建造は撤回されプロジェクト85の計画は1955年12月に完全に中止された(余談になるがプロジェクト85中止時のゴルシコフの役職は海軍第一副総司令官であり、海軍総司令官就任前である)。なお、クズネツォフがプロジェクト85を提案してる間にMiG-15を22機ほど搭載するさらに小型の空母を構想したという話もあるようだ。

(↑プロジェクト85)

 プロジェクト85の諸元は以下の通り。基準排水量23400トン・常備排水量28400トン・満載排水量29470トン。全長260m・全幅41m・設計喫水線長235m・設計喫水線幅25.6m。全高(艦上構造物除く)22.5m・満載排水量時の喫水8.3m。飛行甲板の大きさは全長250m・全幅31m。格納庫の大きさは全長250m・全幅21.5m・全高5.75m。最大速力31.4ノット・経済巡航速度18ノットで航続距離5000マイル・連続行動時間20日。乗組員は1850人。装甲は舷側90mm〜70mm・集中防御区画(115.5m)70m・操舵室70mm?50mm・飛行甲板20mm?10mm・格納庫および燃料タンク10mm。航空機は戦闘機(MiG-19K)40機・ヘリコプター(M1-1)2機。航空艤装として蒸気カタパルト2基・アレスティングワイヤー8基・緊急バリヤー1基・エレベーター2基。エレベーターは18m×10mの大きさで20トンまでの荷物を昇降させることが出来る。備蓄ジェット燃料は760トン・備蓄航空弾薬は79トン。砲熕火器は100mm連装両用砲8基・57mm4連装機関砲6基・25mm4連装対空機関砲4基を備える。100mm砲は2基のСВП-42GFCS(プロジェクト42駆逐艦にも搭載されたもの)と4基のПарус-Бレーダーによって、57mm機関砲は4基のФут-Б射撃管制レーダーによって管制される。捜索レーダーは長距離対空レーダー1基・高角測定レーダー2基・早期警戒レーダーПарус-Н 1基を搭載する。電子戦装置としてESMステーションБизань 3基・電子妨害ステーションКраб 4基を搭載する。ソナーはГеркулес-2を搭載する。

 艦載機としてMiG-19が挙げられていることからわかるように、プロジェクト85はおそらくソ連初のジェット機を前提に設計された空母でもあった。クズネツォフがまだ海軍総司令官のポストにあった1955年4月、彼はフルシチョフに空母のことをアピールすると共にヤコブレフ・ミコヤン・スホーイにプロジェクト85への協力を求めており、ジェット時代の空母と艦載機について模索していたのであろう。戦闘機については当時最新鋭のMiG-19の転用を考えていたが、攻撃機については既にキャンセルされていたTu-91より具体的なものは存在していなかったと思われるので将来的には特にその点で協力を仰ぐ必要が有ったのではないだろうか。このTu-91は米海軍に対抗しうる海軍を建設するための一環として空母向けの攻撃機として設計されたもので、その要求はもとはと言えばスターリンが出したものであった(10ヶ年艦隊整備計画時代の空母計画と関連して開発を指示した)。単発のターボプロップ機だが二重反転プロペラや並列複座など珍しい特徴を備えた機体であるものの、スターリンの跡を継いだフルシチョフとクズネツォフの跡を継いだゴルシコフは空母建造に乗り気ではないのでスターリン死後に陸上機へと転換され、アイデンティティを1つ早速失うことになる。飛行性能自体は良好で1955年5月17日に初飛行を迎えたが、雷撃を想定しているなどミサイル時代に突入しつつ有る1950年代中盤には既に時代遅れ感が否めず、最終的にフルシチョフがTu-91を”撃墜”してしまった。Tu-91については英語版Wikipediaに諸元が記載されているので参照されたい。


 巨大な砲装型水上戦闘艦の取得を目指したスターリンが消え海軍総司令官の地位にクズネツォフが舞い戻った環境の中で進められ、障害はないかに見えたプロジェクト85が中止されてしまった理由は大きく分けて3つ挙げられる。1つ目がソ連海軍の方針転換、2つ目が戦術的状況の変化、3つ目がフルシチョフの潜水艦・ミサイル志向である。
 1つ目の方針転換は、失脚したクズネツォフの後任であるゴルシコフが取り立てて空母を推進していた訳ではないという点に象徴的に現れている。クズネツォフは空母によって艦隊に航空機の傘を提供し安全を確保することを重要視していたが、ゴルシコフは潜水艦の大量建造で米空母を筆頭とする西側海軍戦力に対抗するというフルシチョフの意向に配慮し、また空母を取り立てて重視してはいなかった。加えて、冷戦最初期こそソ連海軍は米空母及び米重巡を目標に絞り対水上戦を重視していたものの戦略原潜の出現に従い1961年に正式にドクトリンを対潜戦重視へと転換している。
 2つ目の戦術的情勢の変化はゴルシコフの方針を裏付けるものでもあるが、ソ連に限らない当時の一般論として核兵器の台頭で水上戦闘艦の地位と生存性が大きく低下させられたという事である。平時のデモンストレーターとしての大型艦が実戦でも主力となるかは地理環境や周囲の海軍力にもよるが、従来であれば大きければ大きいほど”強い”とされた水上戦闘艦核兵器の前ではその優位を失った。アメリカによるクロスロード作戦では核兵器の威力に対して戦艦や重巡洋艦は意外なほどの生存性を見せたが、彼らの継戦能力が健在であっても核攻撃後に艦隊全体が十分な継戦能力を保持できるか否かという問題が有る。またミサイルの登場によって潜水艦は陸上へ実用的な火力投射が可能になったが、核兵器をミサイルに組み込むことによって敵に察知される事無く忍び寄り破壊的な一撃を齎すことが可能になり、これは大量破壊兵器時代の戦争として当時予測された「核の一撃ですべてが決まる」という将来の戦争の形態に従来型の海軍よりも適したものだと思われたことも潜水艦側に有利に働いた。ソ連固有の事情としては空母を帝国主義の尖兵と批判したスターリンの影響の残滓や米海軍は既に大量の空母を保有しており今更ソ連がゼロから空母建造を始めたところで対抗できるかどうか不明であるといったことなどがあり、これも無視することは出来ない。
 3つ目のフルシチョフの潜水艦・ミサイル志向は以上2つの要因の原因であり、背景に存在する時代の趨勢を反映した結果大型水上戦闘艦の意義に疑問をいだいた。

 言うまでもなく核兵器の登場は戦争に大きな影響を与えた。例えばハロルド・ジョージの戦略爆撃理論による戦勝体験を得たアメリカでは戦略爆撃核兵器の組み合わせは正に鬼に金棒で、後に設立された空軍の派閥抗争を戦略爆撃機核兵器そして空中給油機を擁する戦略航空軍団が圧倒的優位で制し、その機動力で開戦劈頭に敵国中枢を破壊し単独で戦争に勝利するところま到達できるということで四軍のなかでもっとも重要な地位を空軍が占めた。ソ連ではジョージの戦略爆撃理論を会得するには至らなかったが、ICBMを手にすることには成功している。その奇襲性は戦略爆撃機を遥かに上回り、核兵器との組み合わせは鬼に金棒ならぬ”鬼にチタン棒”である。主力と考えた運搬手段に差はあれど大量破壊兵器超大国双方が保有する時代に突入し、米ソは通常兵器運用のドクトリンも再考せざるを得なくなった。
 1950年代前半のアメリカでは、国の威信の発露としての役割と他国と交戦する代表的な戦力としての役割を核兵器爆撃機を持つ空軍に奪われ、海軍はそのプレゼンスを縮小していた。一方ソ連では元から海軍は陸軍の補助に甘んじていたが、核兵器とミサイルによってますます存在を小さくしていたのである。面白いことに米ソ両国で海軍は軽んじられていたのだがその内情は両者で若干異なり、アメリカでは核兵器の運搬手段として戦略爆撃機と空母が比較された過程で戦略爆撃機に軍配が上がりかけるも論争が紛糾し、最終的には空母と海軍がある程度復権する*1が、ソ連での論争で問題になったのは運搬手段ではなく海軍という組織そのものであった。「核兵器で戦争の決着がつくのであれば大型艦を揃えた海軍など不要」という出発点はアメリカもソ連も同じだが、アメリカではひとまずは予算を食う大型空母がやり玉に上がる程度で済んだ*2のだがもとより海軍の影響力が小さかったソ連では「核兵器を使った戦争に海軍は不要なのだから、必要最小限の小型艦艇と潜水艦を主力にしてしまえ」という考えに行き着いてしまった。この考えを支持していたのが時の指導者フルシチョフである。
 フルシチョフは1960年1月に「わが国は強力なロケット兵器を持っている。空軍や海軍は軍事技術の今日の発展において従来の意義を失ってしまった。この型の兵器は縮少されるのではなく、代替される。」「海軍において重要なのは潜水艦隊である。海上艦隊は過去に果たした役割をもう果たすことはできない」と演説している。ここから読み取れる彼の考えが2つあり、一つは「ミサイルは空軍や海軍が装備した従来の兵器に取って代わるもので、単に新たに加えられるものではない」という考えで、もう一つは「ミサイルと核兵器の時代に海軍が装備すべきは潜水艦である」という考えだ。この様にフルシチョフ核兵器を抜きにしてもミサイルを重要視したが、ミサイルのプラットフォームについては潜水艦を高く評価する一方で水上戦闘艦を非常に冷淡に評価している。もっとも、敵に察知されること無く近づき核による破壊的一撃を見舞うことの出来る潜水艦と比べると、水上戦闘艦があまりに脆弱で無意味に見えたのも仕方がないかもしれない。

(↑キンダ型)
 フルシチョフによって海軍総司令官に任命されたゴルシコフは海軍軍人としての矜持(あるいは単なる”旧時代”の海軍への憧憬・固執)からかフルシチョフのミサイル・潜水艦偏重の方針に従い*3ながらも水上戦闘艦の重要性をアピールする努力を欠かさず、フルシチョフ政権末期には造船所を訪れたフルシチョフをして「ナウい水上戦闘艦だった(意訳)」と言わしめたという。この時の「現代の海軍の発展と軍事科学技術における近代的な発展に完全に適合している艦船」という彼のセリフと時代からして恐らく見学したのはキンダ型巡洋艦だったと思われるが、このキンダ型はミサイルを主兵装に据えたソ連初の巡洋艦フルシチョフ好みなのは間違いないが、それでもフルシチョフはキンダ級を実戦用ではなく砲艦外交等のデモンストレーション用として捉え16隻の建造予定があったにも関わらず4隻の建造しか許さないという潜水艦主義の徹底ぶりである。しかしキンダ型こそがこの後のソ連大型水上戦闘艦の基礎となる重要なマイルストーンであり、冷戦期のソ連海軍発展の先鞭をつけたのである*4
 こうして首の皮一枚繋がった巡洋艦だが、空母の首の皮は繋がらなかった。元からソ連海軍は潜水艦を多数運用していたところにフルシチョフの潜水艦主義・ミサイル主義が現れ、原子力潜水艦とミサイルの組み合わせはソ連海軍の方向性を決定づけてしまう。クズネツォフがスターリンと戦いながら空母導入を目指したようにゴルシコフはフルシチョフと戦いながら大型水上戦闘艦を守ったが、対空対艦対地に使える上に既存のプラットフォームを流用できるミサイルの前には巨額のコストを必要とし経験に乏しい空母は明らかに分が悪く、ゴルシコフ自身もクズネツォフほどの熱烈な空母推進派ではないことが災いした。1945年の10ヶ年艦隊整備計画を思い起こしていただきたいが、当時の特別委員会は空母の利点について「航空戦力の効率的な海上への投射」「艦隊に常時防空の傘を提供できる」という点を挙げている。しかしこれらはミサイルによって100%とは言わなくてもある程度担えると言え、水上艦隊が復活しても空母の復活とまではいかなかった。

 ちなみにフルシチョフ政権中の情勢だが、ソ連は1953年に水爆実験を成功させ、1955年にはソ連初の原潜であるノヴェンバー型の建造が始まり、これらの要素に第二次大戦中にV1を参考に初めた研究がルーツの巡航ミサイルを追加したエコー1型巡航ミサイル原潜の設計をルビーン設計局に発令したのが1956年といった具合となっている。


 フルシチョフとゴルシコフのタッグによって表舞台から葬られた空母であるが、水面下では依然として動きが見られた。
 1959年から1960年にかけて中央軍事造船研究所と第17設計局は”戦闘航空洋上基地”(PBIA)の設計を行った。これは空母の隠語で、ミサイル・潜水艦主義を採るフルシチョフ政権下という政治的理由から表立って空母という単語が使えないためにこの様な言葉が使われていた。PBIAコンセプトに関する研究は中央軍事造船研究所が初めたものだが後に第17設計局も参加する。第17設計局は後のネヴァ設計局の前身であり、ネヴァ設計局はアドミラル・クズネツォフの設計を担った組織であるとともに彼らはソ連海軍の航空機搭載艦艇に深く関わることになるがそれはしばらく後のお話。第17設計局は中央軍事造船研究所のPBIA案を最終的に3万トンまで大型化させ、原案でディーゼルとされていた機関を従来の蒸気タービンに変更するなどの手を加えたが、PBIAコンセプトへの理解と支援を軍事産業から取り付けることが出来ずまたフルシチョフ時代の政治から支援も得られないため、プロジェクトの推進力に欠け空母設計の習作のような地位で終わってしまう。
 PBIA中央軍事造船研究所案の諸元は以下の通り。全長250m、喫水線長230m、全幅45m、喫水線幅25m、喫水7.4m。基準排水量2万トン、常備排水量2万1千トン、満載排水量2万2千トン。最大速力31.5ノット、経済巡航速度24ノット(些か速すぎる気がするが)。24ノットでの航続距離は4000マイル。固定ピッチプロペラを備えた3軸推進で、機関は2万馬力のディーゼルエンジン×6。武装はAK-725 57mm連装機関砲8基。航空艤装としてカタパルト2基とエレベーター2基を備える。6.5度のアングルドデッキを持ちハンガーの高さは6.5m。搭載機は戦闘機24機、AEW2機、救難ヘリ2機。
 PBIA第17設計局案の諸元は以下の通り。全長254m、喫水線長230m、全幅50m、満載排水量3万トン。最大速力32ノット、経済巡航速度18ノット。18ノットでの航続距離は5000マイル。推進機関は蒸気タービンに変更されている。武装はAK-726 76.2mm連装砲4基と近接防空用のミサイル。航空艤装としてカタパルト2基とエレベーター2基を備える。搭載機は戦闘機30機、AEW4機、救難ヘリ2機。

(↑PBIA第17設計局案)


 このPBIAだがプロジェクト85に続いてまたしてもミサイルに敗れることになる。この当時のソ連海軍を取り巻く事情を見てみよう。
 1957年に世界初のICBM R-7の発射に成功しソ連アメリカに先んじてICBMを手に入れるが、最初の部隊が戦闘能力を獲得したのは1959年2月になってからであった。その間にもアメリカは短射程の核弾頭を備えた弾道ミサイルを着々とソ連周辺の同盟国に配置しており、1959年には同国初のICBM アトラスの実用化にこぎつけていた。アメリカにはソ連周辺の有力な同盟国が多数ありそこに比較的短射程の弾道ミサイルを配備できたが、アメリカの近くのソ連友邦は限られ(その限られた有力な国があのキューバであった)同じ手は使えないため敵国中枢に対する実質的なミサイル戦力では西側に遅れを取っていた。そんな中アトラスと同じく1959年に登場した核戦力がSLBMポラリスジョージ・ワシントン戦略原潜である。
 同時期にソ連はホテル型戦略原潜(プロジェクト658)を建造していたが、搭載するR-13ミサイルの射程は600kmと短い上に3発しか搭載できない。その上発射の際には浮上する必要があり、洗練されたジョージ・ワシントン級とは比べ物にならないものである。陸上配備弾道ミサイルのギャップに加えSLBMギャップも大きいことはソ連にとって痛手であるが、ともかく海中を密かに移動し比較的遠距離からソ連本土を攻撃できるジョージ・ワシントン級は大きな脅威でありなんとしてもポラリス発射前に探し出して撃沈せねばならなかった。
 従来通り本土近くで敵を迎撃するという海軍ドクトリンに従い近海に対潜部隊を配置するのであれば陸上の航空機で援護可能であるが、本土から離れた海域の戦略原潜を探すには対潜部隊も遠洋まで進出する必要があり陸上基地の覆域から離れざるを得ない。敵の攻撃が激化することが予想される一方で味方の援護が期待できないためASWチームには防空能力が必須となるが、ソ連には空母が無いため対潜艦プロジェクト1144とペアを組みミサイルで防空を担う防空巡洋艦プロジェクト1126が1959年ごろから設計された。プロジェクト1126によって対潜部隊は空母無しに経空脅威から身を守ることが出来、遠洋での有効な行動が可能となるという寸法である。PBIAの建前としてはプロジェクト1126の補完があったようだが、公式な番号が与えられていない時点でその扱いはお察しだ。なおプロジェクト1126の防空システムM-3は第17設計局が担当している。
 ちなみにこの対潜艦プロジェクト1144は後のキーロフ級の前々身であり設計番号も同じものが与えられている。1126と1144は共に原子力推進の重厚長大な艦であったが、1126は搭載する防空システムに多くの技術的問題を抱えたため「より有望な艦に集中投資する」という政府の判断により1961年に破棄が破棄され、1126の代わりに計画された打撃型の原子力巡洋艦プロジェクト1165と対潜艦1144が合流し1971年にキーロフ級の直系の祖先であるプロジェクト1144となるが、各々の1144という数字は決して何かの間違いではなく同じ数字が受け継がれている。しかし実質的に対潜艦1144とキーロフ級系1144は別物と言えるだろう。

(↑プロジェクト1126)
 参考までに、この当時のソ連の代表的な水上戦闘艦カニン型(プロジェクト57bis)・カシン型(プロジェクト61)・クレスタ1型(プロジェクト1134)など。対潜型1144はクレスタ2型の能力向上・原子力推進版としての位置づけで、またカシン型はASWチームの一員としての対潜能力とある程度の防空能力を備えている。

【参考】
ロシアの空母:6つの忘れられた計画
PBIA暫定設計
プロジェクト1126

*1:所謂”提督たちの反乱”があったのがこの時期

*2:議会など公的な場ではそうなのだが、非公的な場では海軍不要論も当然言われたりしていた

*3:このため親空母派のマニアからは「時の指導者に唯々諾々と従いそのポストを守ることだけを考えた俗物」呼ばわりもされることもあるが、流石にあんまりだと思う

*4:例えばクレスタ各型はキンダ型がベースであるし、大型水上艦のポストを守れた意義も大きい

ソ連空母建造前史4〜K案・特別委員会案・プロジェクト69AV

ソ連空母建造前史3
  前回はグラーフ・ツェッペリンについて取り上げたが、彼がソ連に与えたの影響は独ソ戦終結前の1944年のうちに現れている。日本でもそれなりに有名な、コストロミノフ技術少尉が卒業論文としてまとめた所謂”K案”がそれである。

(↑K案)
これは現在のN.G.クズネツォフ名称記念海軍アカデミーの卒業論文として発表されたもので、当時同アカデミー海軍科学部門のトップであったレオニード・ゴンチャロフ海軍中将によって執筆を指示されていた。グラーフ・ツェッペリン視察団の資料(当然独ソ回戦前のものである)を元にして研究を仕上げたと言われ、概ね同艦に準じた構造になっているが満載排水量51200トンと一回りほど大型化しており搭載機数も106機と強化されていた(グラーフ・ツェッペリンはそれぞれ33550トンと約50機)。全長280m・全幅33m・喫水8mで、カタパルトを2基備えた飛行甲板は全長300m・全幅35mの大きさを持つ。搭載機数106機の内訳は戦闘機66機・爆撃機40機であり、更にこれに加えて分解状態の8?14機を格納可能になっている。航空燃料は106機それぞれに22ソーティー分を確保する容量のタンクに貯蔵されるが分解状態の機体についてはそれぞれ5ソーティー分しか確保されていない。砲熕火器は巡洋艦に遜色ない水準であり、152mm連装砲8基・100mm三連装砲4基・100mm連装砲6基・37mm4連装対空砲8基・23mm連装機関砲22基となっている。装甲についてもコストロミノフ技術少尉は苦心して巡洋艦レベルを実現しており飛行甲板や燃料タンクそして操舵室は80mm・艦橋と格納庫は40mmの装甲が付帯されている。機関出力は267000馬力で最大速力35ノット、経済巡航速度16〜18ノットを発揮する計画であった。なお航続距離は1万マイルである。
 K案は卒業論文とは言え海軍大学校の生徒が実物を踏まえた資料を参照して真面目に設計したものであり、高い評価を与えられたとともにその後の空母研究に大きな影響を及ぼしたと言われる。しかしあくまでも卒業論文卒業論文であり、また砲装型軍艦大好き人間となったスターリンが権力の座に居るというクレムリンの政治的都合もあってかK案そのものが直接建造計画の俎上に上がることはなかった。



 この後に続いて設計されるのが、第2回でも取り上げたプロジェクト72と特別委員会案である。
1945年1月に10ヶ年艦隊整備計画に関連して空母について検討していた特別委員会は「赤色海軍向け空母の選択に関する考察」と題した報告書を発表し、昨今の海戦では航空機は必要不可欠でありソ連は陸上に強力な航空兵力を有しているものの海上にそれを投射するには費用と効率の問題がある(特に空母を保有していれば常に艦隊を敵機から守れる優位を強調した)と空母の存在意義を述べた上で、ソ連は空母建造の経験はないが第二次世界大戦で運用された各国の様々な空母を参考にすれば建造に支障はないと主張した。そして各地方の様々な情勢を考慮して北方艦隊には護衛空母と3万トン級空母を、太平洋艦隊には護衛空母と重空母を、バルト艦隊及び黒海艦隊には防空と対潜戦の為の1万4千トン級空母の建造を提言した。ただし経験不足を補うためにまずは小型空母から建造することを推奨している。この提言に先立って委員会は専門家を米海軍及び英海軍に派遣し空母の構造や運用そして戦闘方法を研究させており、それと同時にアメリカから供与を受けたリバティ輸送船を空母に改造することや同盟に基づきアメリカから空母を数隻レンタルあるいは購入することも選択肢に挙げるなど多角的な調査に努めていた。海軍副人民委員のイワン・イサコフ海軍元帥と海軍参謀次長ステパン・クチェロフ海軍中将は委員会の提言に懐疑的であったが、空母の必要性は認め部隊編成案の作成に取取り掛かることになる。しかし11月27日に10ヶ年艦隊整備計画が認可された時に、政府指導者と赤色海軍上層部の反対のために建造リストの中に空母は含まれておらず少なくとも今後10年は空母を建造しない方針が決定された。
 特別委員会が提言した空母のうち、3万トン級の物には小型案と大型案があるが、当初特別委員会に示された小型案の諸元は以下の通り。戦闘機30機と爆撃機雷撃機30機に加え水上機2機の合計62機を搭載し、カタパルトは2基を備える。砲熕火器として130mm連装砲12基・45mm4連装対空機関砲12基・23mm4連装機関砲4基を搭載する計画であった。装甲は舷側が100mm、主甲板が55mm、飛行甲板が30mm、格納庫が20mm〜30mmとなっている。なお飛行甲板の大きさは全長240m全幅24mである。最高速力は32ノットで、経済巡航速度18ノットで8000マイルの航続距離を持つ。排水量は28000トン。
 これに対して、特別委員会が要求した大型案は次の通り。戦闘機26機と軽攻撃機27機の合計63機を搭載し、砲熕火器は100mm連装砲9基・45mm4連装対空機関砲6基・23mm対空機関砲14基。装甲は舷側80mm・装甲水平甲板50mm・飛行甲板25mm・格納庫25mm。最大速力は34ノットで経済巡航速度は14ノット。21ノットで3000マイルの航続距離を持つ。全長242m・全幅29.6m・喫水8.18m・全高22.9m。基準排水量30560トン・満載排水量37580トンである。
 重空母は戦闘機・軽攻撃機・重攻撃機それぞれ24機の合計72機を搭載し、砲熕火器は100mm連装砲12基・45mm4連装対空機関砲6基・23mm対空機関砲24基。装甲は舷側100mm・装甲水平甲板60mm・飛行甲板25mm・格納庫25mm。最大速力は34ノットで、21ノットで3000マイルの航続距離を持つ。全長274m・全幅32m・喫水10.3m・全高29m。基準排水量35720トンで満載排水量43630トンである。
 バルト艦隊・黒海艦隊向け防空・対潜戦空母の諸元を以下に記す。搭載機は戦闘機25機(更に艦爆などが加わると思われるが機数不明)で、カタパルトは搭載しない。砲熕火器として130mm連装砲を6基・45mm4連装対空機関砲6基・23mm4連装対空機関砲2基を備える。装甲は舷側100mm、主甲板55mm、飛行甲板20mm、格納庫20mmである。最大速力は32ノットで、経済巡航速度18ノットで5000マイルの航続距離を持つ。飛行甲板は全長200m全幅20m。排水量(恐らく基準排水量)は15000トン。
 護衛空母の諸元は以下の通り。戦闘機24機・軽攻撃機18機で合計搭載機数は42機。砲熕火器は85mm連装砲4基・45mm4連装対空機関砲3基、23mm機関砲12基。最大速力は20ノットで経済巡航速度14ノットの場合航続距離は4000マイルとなる。全長153m・全幅18.6m・喫水5.15m・乾舷14.4m。基準排水量は7920トンで満載排水量は8560トンである。
 特別委員会―つまるところクズネツォフ―は正規空母級2隻(北方艦隊1・太平洋艦隊1)・軽空母級4隻(北方艦隊・太平洋艦隊・バルト艦隊・黒海艦隊それぞれ1)の建造を望んだが、承認されなかったことは上述の通りである。



 さて、1946年〜1955年の海軍力整備を定めた10ヶ年艦隊整備計画の中身を見てみることにする。
  1.プロジェクト30bisを発展させた大型駆逐艦の建造→プロジェクト41(タリン級)として結実
  2.新世代潜水艦の建造→UボートXXI型の設計を取り入れたズールー級などとして結実
  3.各種巡洋艦の建造→プロジェクト68bis(スヴェルドロフ級)として結実
以上がその骨子となる。アメリカに対抗する潜水艦戦力の増強とそれを援護する対潜戦の為の新たな駆逐艦の整備がキーポイントとなり、対水上打撃を担う巡洋艦については方針が二転三転したが最終的にプロジェクト66・プロジェクト82の中止とプロジェクト68Kの縮小により戦後新規起工分で竣工したのはプロジェクト68bisのみとなった。
 そしてその巡洋艦については、第二次世界大戦で建造が凍結され未完となっていたプロジェクト69/69i(クロンシュタット級重巡洋艦)1番艦クロンシュタットの処遇が問題となった。同艦は満載排水量4万トン級で、69は30cm砲・69iはビスマルク級と同形式の38cm砲を搭載するという事実上の巡洋戦艦である。一応起工はされたプロジェクト82はこのプロジェクト69の発展改良型だが、82は69の計画中止後の1951年に改めて建造しているのでこの時点では船体が余った状態になってしまったのだ。選択肢の一つとして空母に改造する可能性が模索され、改造空母はプロジェクト69AVの名称が与えられた。

(↑プロジェクト69AV)
プロジェクト69AVは1945年から1946年にかけて設計が行われたが、巡洋艦建造の進捗率が7%と芳しくなかったため解体することが決定され空母化の道も閉ざされた(もちろん10ヶ年艦隊整備計画の影響もあるだろうが)。なお2番艦セヴァストーポリは大戦中にナチスドイツによって解体・爆破され建造再開は断念されていた為こちらは問題となることはなかった。

ソ連空母建造前史5→

【参考】
Проект 69АВ и АВ комиссии Чернышева
Линейные крейсера типа «Кронштадт» проекта 69
Нереализованные проекты советских авианосцев, графика
Техника молодежи 1995-4 Аэродромы над океаном
Несостоявшиеся "Авианосные" державы

ソ連空母建造前史3〜グラーフ・ツェッペリン

ソ連空母建造前史2

 前回でもソ連がドイツ視察を行った際に建造中の空母グラーフ・ツェッペリンを見学するなど一定の興味を抱いていたことが伺えるエピソードを紹介したが、このグラーフ・ツェッペリンソ連の空母研究に少なからず影響を及ぼしているので独立した項目で取り扱うことにした。

(↑進水式を迎えるグラーフ・ツェッペリン)


 ソ連が1930年代に第3次五カ年計画に基づく大規模外洋艦隊整備計画を策定したことは既述であるが、空母グラーフ・ツェッペリンもまたこれとほぼ同時期に建造が行われていた。同艦は1935年11月16日に発注され1936年12月18日に起工されている。当然ソ連も一定の情報は得ていたはずであり、艦隊整備計画を考える上でその存在が何かしらの影響を与えていてもおかしくはない。セルゲイ・ゴルシコフによれば、1930年代にスターリンが海軍拡張を決意したのはシベリア出兵の様な資本主義諸国のロシア革命への介入の際にソ連海軍が有効な行動を起こせなかったということやスペイン内戦時にも海上戦力の不足で人民戦線支援が思うように出来なかったという出来事が遠因になっていると言う。北方艦隊近くの空母を擁する海軍と言えば当時はイギリス海軍とフランス海軍があったがグラーフ・ツェッペリン建造によってドイツ海軍もこれに加わる事になり、資本主義諸国に対抗できる海軍力を整備するという目的を達成するためにソ連が空母保有を検討するのは自然なことだと言えるだろう。ドイツの空母建造は英独海軍協定によって可能になったものだが、協定締結後に実際にグラーフ・ツェッペリン建造を開始したことでフランスはこれに対抗するために同国初の改造空母ベアルンから10年ぶりにジョッフル級正規空母を建造することになった。ソ連にせよフランスにせよグラーフ・ツェッペリンがすべての理由では無いにしても、この時点で既に空母建造の決定に影響を与えているのは間違いない。(しかしソ連の空母は勿論ジョッフル級も完成には至らなかった。そして当のグラーフ・ツェッペリンも未成に終わったのだからなんとも言えない虚しさがある)

(↑空母グラーフ・ツェッペリン)


 さて、ソ連グラーフ・ツェッペリンないしその同型艦購入をドイツに打診したという1939年〜1940年は大祖国戦争勃発前であり、独ソ不可侵条約締結が締結されていることもあってソ連とドイツ間の関係は表面上は悪いものではなかった。ドイツは連合軍の上陸を阻止するために大西洋の壁と呼ばれる防衛網構築を開始し、それらの資材確保や優先順位の問題から1940年6月にグラーフ・ツェッペリン建造は完成率90%前後に達しながらも中断される。ソ連の購入打診もおそらくはこういう情勢をある程度踏まえて行われたと考えられるが、ドイツはこれを拒否し高射砲の射撃指揮装置の売却のみ認めたに過ぎなかった。最終的にグラーフ・ツェッペリンソ連軍の接収を避けるため1945年4月25日に自沈するが、戦後に浮揚されソ連海軍の管理下に置かれることになる。

(↑ソ連軍に鹵獲されたグラーフ・ツェッペリン)


 ここからの事実説明だけではあまりにあっさりしすぎているので、ドイツ国防海軍解体の経緯を織り交ぜて少し解説する。1946年1月23日付けのプラウダ紙が「イギリス・アメリカ・ソ連は三ヶ国海軍委員会を組織してドイツ国防海軍艦艇の分割を行うという公式声明を発した」と報じているが、ソ連からは軍事造船中央研究所の長だったアレクセーエフ・ニコライ・ヴァシーリエヴィチ技術少将が代表として参加したこの委員会でドイツ国防海軍の物質的な解体と戦勝国への山分けが行われることになる。
 実際にこの作業を行う前にまず現存する艦艇のリストアップとカテゴライズが成された。余談になるが艦艇がリストアップされた結果、ドイツ国防海軍は大戦中に戦闘艦艇の50%を喪失しさらに13%が降伏期間中に沈没しており、当時連合国が管理していたのは30%程度だったという。リストの内訳は戦艦1隻(グナイゼナウ?)、重巡洋艦1隻(プリンツ・オイゲン?)、軽巡洋艦1隻(ニュルンベルク?)、駆逐艦30隻、潜水艦30隻、掃海艇132隻、護衛艦17隻、防空砲艦8隻、魚雷艇89隻とのこと。ちなみに議論が最も紛糾したのは2100隻以上にも及ぶ支援艦艇の行き先を決定する時だったとか。数が多いことに加えて、戦闘艦よりは転用もし易いだろうからそれだけ価値があるということだろうか。
 リストアップが終われば次はカテゴライズである。艦艇のコンディションに従って分類され、最も状態がよく直ちに戦力化可能なカテゴリーA、6ヶ月以下の修復で戦力化できると見積もられたカテゴリーB、浸水・損傷しているか未成艦であるなどの理由で戦力化に6ヶ月以上必要なカテゴリーCという風になった。この3つのカテゴリーから戦勝国に艦船を割り当てる事になるが、三ヶ国海軍委員会はカテゴリーCについては速やかに解体するか大深度に自沈させるよう勧告していたようだ。このカテゴリーCに含まれそうな船を思い浮かべると上述したリストの内訳の数を明らかに上回りそうなものだが、そのあたりの事情は時間もかかるので傍論ということで調べていない。
 そして肝心のグラーフ・ツェッペリンソ連に割り当てられたがカテゴリーCに分類されていた(グラーフ・ツェッペリンは上のリストの内訳に入っていないと思われるが...)。ソ連グラーフ・ツェッペリンを自らの手で完成させることを真剣に検討したが、先程も述べた「カテゴリーCの船は解体しましょう」という勧告(当事者が当事者に向かって勧告しているのだからもはや約束と言っても過言ではない)とドイツが用意していた艤装の多くが西側占領地域に保管されており西側はそれらの移動を一切認めなかったという事情のため計画は断念されることになった。後者の理由の詳細は分かりかねるが、グラーフ・ツェッペリンキールにあるドイチェヴェルケの造船所で起工されており後に未完成のままポーランドのシュチェチンへ移動してそこで自沈している。キールは西側が占領することになるが、恐らくグラーフ・ツェッペリンに取り付けられていない艤装はキールかその近くに留められたままだったためにそういう事情が生じたのだと思われる。ただしニコライ・クズネツォフはグラーフ・ツェッペリンをあくまでも国産空母のテストベッドとして考えていたようなので、同艦を完成させようとした意図は当時ソ連で設計が行われていたプロジェクト72の代艦というわけでは無い。空母として運用する見込みが無くなったためか1947年2月3日には洋上基地PB-101という扱いに変更されたがここではグラーフ・ツェッペリンのまま通すことにする。


 ソ連は完成を断念したグラーフ・ツェッペリンを最大限有効に活用する為に、実弾を用いて撃沈することで空母の生存性を検証することを思いついた。単なる実弾演習という意味以上に、空母を撃沈する経験を積むことで来るべき米ソ戦争で高価値目標となるはずの米空母への備えという意味も有ったに違いない。1930年代頃にもイズマイルを標的に実弾を発射しているが、空母に改造されなかったイズマイルの構造は巡洋戦艦のそれであり最終的には撃沈せずにスクラップとして処理されている。そして言うまでもなくこの15年程度の間の航空機の進歩は目覚ましいものが有ったのだから、改めてグラーフ・ツェッペリンで実験を行うことは基調な経験をもたらしてくれるはずだった。
 この実験の為にイワン・ユマシェフ海軍大将は1947年5月17日に特別委員会の設置を命じ、ラール・ユーリー・ヒョードルヴィチ海軍中将の指揮のもと計画は開始された。グラーフ・ツェッペリンに前もって仕掛けておいた弾薬を起爆させ構造の弱体化を調査した後に航空爆撃と巡洋艦からの砲撃を行い最後に雷撃でとどめを刺すという手順が演習という形で定められ、また攻撃はあらゆる距離・深度に対して行うことで可能な限りデータを得ることが出来るように留意された。しかしグラーフ・ツェッペリンの状態は未成艦であることを差し引いても褒められたものではなく、トリム調整無しだと0.5度右に傾いた状態が標準で船体には人為的に作られた最大で1.5m×1mほどの穴が36もありボイラーや蒸気タービンなど動力関係の機器もドイツ人によって破壊されていたという有様で、それら破壊工作の為に水密隔壁も破られてしまっていた。水面下にも最大幅0.8mの亀裂が0.3mほど続いており、スクリュープロペラは取り外され飛行甲板に転がっていた。その飛行甲板やエレベーターも傷ついて大きな凹みが生じており、ソ連は実験を行う前にまずこれらの損傷をドイツで修理しなければならなかった。艦の排水ポンプを復旧させて穴や亀裂の封印や12ヶ所の水密隔壁の復元が行われたが、あくまで標的艦としての使用なので修理は必要最小限に抑えられ喫水線より上の部分については必要な労力と時間不足のために一部作業が省略された。1947年8月14日にはポーランドのシフィノウイシチェ港外まで曳航され、更に砕氷船ヴォーリニェツ及び曳船MB-44・MB-47・T-714・T-742・VM-902によって5マイル離れた射爆海域まで移動させられた。事前の修復にも関わらずこの時点で排水不良により左に3度傾斜していたという。また8月15日の夜から16日にかけて主錨の鎖が不良であることが判明したため副錨のみで錨泊することになったが、完全に位置を保つことは出来ずほんの僅かに漂流しておりこれが実験に大きな影響を与えることになる。

(↑曳航されるグラーフ・ツェッペリン)


 8月16日の朝から実験は行われ、まず船体に仕掛けられた弾薬が起爆された。煙突のFAB-1000航空爆弾1発および飛行甲板下部のFAB-1000航空爆弾3発と180mm艦砲の榴弾2発が最初に炸裂し、続いて飛行甲板に設置された別のFAB-1000が爆発した。3番目の爆発は飛行甲板上のFAB-250と格納庫上部の180mm砲弾2発が同時に起爆することでもたらされ、4番目には飛行甲板直上2.7mに据え付けられたFAB-500と飛行甲板上のFAB-250そしてC甲板のFAB-100が同時に起爆された。そして最後に飛行甲板上のFAB-500とFAB-100が爆発して一連の手順が終了した。
 最初に煙突で起爆したFAB-1000はあまり効果的ではなく、煙突の破壊には成功したものの爆風は艦橋に危害を加えるに至らずまたボイラーにも致命的なダメージを与えられなかっが、その一方で飛行甲板下部の3発のFAB-1000(飛行甲板に埋め込まれたものとそうでないものが混ざっていた)は爆発の衝撃波で格納庫を破壊した。1発のFAB-1000による二番目の爆発は半径7mの範囲にわたって飛行甲板に歪みを生じさせたが、飛行甲板を破壊するまでは行かず直径3cmの穴を開けただけだった。ソ連海軍はこの”戦果”を低く評価した様だが、飛行甲板の機能を奪うという目的であれば半径7mの歪みを生じさせた時点で十分達成されており当時の海軍上層部の空母に対する認識の不足が伺える。三番目の爆発でFAB-250は直径0.8mの穴を開けることに成功し、更に爆心から半径1.3mの範囲内で飛行甲板が無力化された。これは最初の爆発で180mm艦砲が与えたダメージとほぼ同等である。四番目の爆発の結果はそれまでに蓄積していた損傷と爆発の与えた影響が小さかったという可能性のために十分に確認することが出来なかった。しかし最後の五番目の爆発の影響ははっきり確認することができた。この5番目の爆発で使用された爆弾は爆発の運動エネルギーの浸透効果を調査するために異なる深さに埋め込まれたりあるいは飛行甲板を切り欠いて設置していた。FAB-500の起爆によって飛行甲板に半径3.5m深さ0.5mの穿孔が生じさせ、FAB-100は格納庫に穴を開けてその中をめちゃくちゃにしてしまうほどだった。
 続いて航空攻撃が実施された。第12親衛戦闘機航空連隊のパイロット39名と25機のPe-2がこれに従事し、事前に訓練が行われている。事前準備としてグラーフ・ツェッペリンの飛行甲板に5m幅の白線で20m×20mの十字がペイントされ、おそらくこれを目標に攻撃したと思われる。攻撃は三波に分けて行われ、第一波は高度2070mからP-50爆弾28発を投下し第二波は同高度からP-50爆弾36発を投下し最後の第三波はP-50爆弾24発を投下した。このうち3機はトラブルにより爆弾を海面に投下せざるを得なかったがそれを抜きに考えても結果は酷いもので、ほぼ静止していて対空砲火もない巨大な目標に90発近い爆弾を投下したにも関わらず命中したのはわずか6発でしかも飛行甲板にダメージを与えられたのは5発という成績に終わった。パイロットは朝から行われた実験で既に損傷していた部分にも命中弾があったと主張したがそれを含めても11発にす過ぎない。一方で使用されたP-50爆弾は訓練用なので空母を破壊するには威力が不足しているという点が指摘されており、また経験の少ないパイロットは視界不良を訴えていたためそういった要因が働いた可能性もあるが、それでもP-50のうち1発は1m貫通し対空砲火に晒されないパイロットはストレス無く照準できたはずであるためにこの結果は優れているとはいえないと判断された。
 日が明けて8月17日になると天候が崩れ始め風速5〜6の風が吹くようになり主錨を使用できないグラーフ・ツェッペリンは浅瀬へ向けて大きく漂流し始めた。水深113mの地点で実験が開始されたが、弾薬を起爆する実験の第一段階が終了した時点で既に水深82mの地点まで流されてしまっており、浅瀬に近づき過ぎるとグラーフ・ツェッペリンを完全に沈没させることができなくなる恐れがあったためラール・ユーリー・ヒョードルヴィチ海軍中将は実験を中止して速やかに雷撃処分する決断を下した。このため黒海艦隊の巡洋艦モロトフ(マクシム・ゴーリキー級/プロジェクト26 bis)が行うはずだった180mm砲による砲撃はキャンセルされ雷撃処分を行うバルト艦隊の魚雷艇TK-248、TK-425、TK-503及び駆逐艦スラーヴヌイ、ストローギイ、ストローイヌイ(いずれもストロジェヴォイ級駆逐艦/プロジェクト7U)が現場へ向かった。最初にTK-248が雷撃を敢行したが魚雷は起爆せず艦底下を通過し失敗に終わる。続いて15分後にTK-503が雷撃し命中させたものの致命傷を与えることは出来なかった。さらに一時間後に駆逐艦スラーヴヌイが到着し魚雷を発射した。魚雷はエレベーターの喫水線下に命中し徐々に艦体が傾き始め、15分後には傾斜は25度にも達し艦首も持ち上がり始めた。その更に8分後(スラーヴヌイの魚雷命中から23分後)にはグラーフ・ツェッペリンは横倒しになり艦首は25度持ち上がった状態になり沈没した。2006年に水深87mの地点に沈没船があることが発見され、ポーランド海軍によってそれがグラーフ・ツェッペリンであることが確認されている。


 ソ連グラーフ・ツェッペリンを撃沈するのに要した火力は船体に装着された爆弾12発(FAB-1000×2・FAB-500×2・FAB-250×3・FAB-100×5)及び180mm艦砲榴弾4発(合計92kg)、爆撃で命中したP-50爆弾6発そして最後の雷撃で命中した533mm魚雷2発であった。これを評価するにあたっては当時のグラーフ・ツェッペリンが完全な状態でなかった事に留意する必要がある。上述したように水密隔壁は後から修理したもので、また喫水線より上は修理されていない部分さえ有った上に航空爆撃と雷撃の前には弾薬の起爆によって損傷が蓄積していたのだ。そして船にはダメージコントロールを行う乗組員が居なかったし、空母を護衛する船も居なければ動きさえしていなかった。確かに被害を拡大させる燃料などは積み込まれていなかったがそれでもグラーフ・ツェッペリン側が不利な条件が揃っていたと言うことができ、グラーフ・ツェッペリンが空母としても脆弱であったと言うまでは至らないであろう。
 そして当時ソ連国内では国産空母としてプロジェクト72のさらに次世代の空母が研究されており、実際にグラーフ・ツェッペリンは彼らに影響を与えているのだ。これまでほぼ空母を机上の存在としてしか認知できなかったソ連が実際に触れることができた空母としてグラーフ・ツェッペリンの果たした役割は大きいといえる。次回以降でグラーフ・ツェッペリンの足跡が刻まれたソ連の空母設計案を見ていきたい。


ソ連空母建造前史4
【参考】
空母グラーフ・ツェッペリン〜赤軍の戦闘のトロフィー
WarGaming.net wiki "グラーフ・ツェッペリン"
Aircraft carrier Graf Zeppelin

ソ連空母建造前史2〜航空戦艦/プロジェクト71/プロジェクト72

ソ連空母建造前史1
 イズマイル改造案からコムソモーレツ改造案に至るまでの最初期の一連の空母建造計画の次に訪れた空母保有の機運は、1930年代の海軍力増強計画の策定であった。
 1938年〜1942年の第3次五カ年計画と関連して1930年代にソ連は海軍力増強のため赤色海軍参謀オルロフ・ウラジミール・ミトロファーノヴィチルディー・イワン・マルティノーヴィチの主導で大規模外洋艦隊整備計画を画策したが、その計画では赤色海軍は重点的に戦艦と重巡洋艦を整備する一方で空母も導入することになっており、6隻の空母を建造して4隻を太平洋艦隊・2隻を北方艦隊へ配備することが想定された。しかし最終的に空母は2隻(北方艦隊1隻、太平洋艦隊1隻)のみ建造に修正されることになる。根本的には1940年に大規模外洋艦隊整備計画が縮小されたことが原因だが、他の理由としては赤軍(陸軍)重視のソ連において空母が”洋上劇場”とみなされまたスターリンは空母より戦艦や重巡洋艦を重視した事と、赤色海軍は空母の護衛艦や艦載機を必要としており多数の空母建造はそれらの整備に支障をきたすと考えられた事が挙げられる。それでも1937年には国防人民委員部によって空母建造が承認され、第3次五カ年計画に従った1930年代中頃からの空母建造計画はこの枠組の中で実施されることになる。


(↑航空戦艦1935年案)
 この頃のソ連航空母艦と戦艦のハイブリッド型―いわゆる航空戦艦(あるいは航空巡洋艦)―を構想しており、その第一弾として1935年に航空戦艦の暫定計画が策定された。この航空戦艦は29,800トンの排水量を持ち、21万馬力の機関出力で35〜39ノット(!)を発揮するとされた。砲熕兵器として9門の305mm砲と16門の130mm砲および18門の45mm機関砲を有し、60機の艦載機を搭載できる。側面装甲は最大200mm、水平装甲は最大125mmとされた。しかしこれらの要求性能は明らかに過酷なものであり、特に装甲と速力の両立は極めて困難と言っても過言ではない。ソ連造船業界がこの様な艦船を建造することが不可能であることはすぐに明らかになり、航空戦艦のコンセプトに対する疑念も生まれた。

(↑プロジェクト10581 C案)
 1937年からアメリカでソ連のための航空戦艦が開発された。これは駐米ソ連大使の求めに応じて行われたものだとされる。アメリカで設計されたもののうち最も興味深いのがプロジェクト10581で、A・B・Cの3つの設計案が存在した。プロジェクト10581はギブス・アンド・コックス社が設計したものだが、この会社はこの種の艦船―おそらく空母―を設計した経験がなかった。このプロジェクト10581はとても贅沢な艦で、なんと排水量は7万3千トンに達し約30万馬力の機関出力で34ノットを発揮した。主砲も8門の457mm砲ないし12門の406mm砲を装備するといった具合で、副砲の類に至っては28門の127mm砲と32基の28mm機関銃を有するという壮大な計画である。艦載機は各種合計36機と水上機4機を搭載し、発艦の為に飛行甲板前方に2基のカタパルトを設置する予定だった。
 しかしこの設計は主砲塔や上部構造物が飛行甲板と空気的に干渉して大きな乱流を発生させて発着艦に支障をきたすことが明白であり、しかも最も現実的なC案でもその性能や規模は赤色海軍が導入するのに適当であるとは言いがたかった。そして最終的にソ連は航空戦艦の導入を断念することになった。この種の設計はそれが計画であるうちは優れているように見えるが、実際に建造することを考える段階になると上述の乱流の問題や費用の問題そして戦闘時の安定性の問題(空母と違い航空戦艦は最前線で戦わないと意味が無いがそうすると飛行甲板の機能を喪失する可能性が高くなる...発見されると高価値目標なので優先的に攻撃される...などと言った点)が存在していることが判明し、あまり賢明ではないと考えられるようになった為である。
 


 航空戦艦が芳しくない結果を残した一方で1939年4月28日に海軍人民委員に就任したニコライ・クズネツォフは大いに空母導入を支持していた。また1939年〜1940年に行われた対外貿易人民委員によるドイツ視察では空母グラーフ・ツェッペリンの建造現場を訪問し、ドイツ側に拒否されたもののグラーフ・ツェッペリン購入もしくは同型艦ソ連売却の打診を行っており、ソ連の空母保有の機運は決して衰えてはなかった。しかしスターリンはソビエツキー・ソユーズ級の様な大型戦艦の整備に意欲を燃やしておりクズネツォフは彼の方針と対立しながら空母導入を目指さなければならなかった。それでも冒頭で述べたとおり1940年以降においても空母2隻(北方艦隊1隻、太平洋艦隊1隻)の建造は健在であり、クズネツォフは北方造船所にプロジェクト71と呼ばれる空母の設計を命じた。

(↑プロジェクト71)
1938年6月27日に赤色海軍は北方造船所に対して軽空母プロジェクト71の設計案に対する戦術的・技術的要求を出し、1939年半ばには予備設計が完了した。これは赤色海軍とソ連造船業界にとって適切な規模と性能のものだった。プロジェクト71はコムソモリスク・ナ・アムーレの第199造船所で1番艦が建造されることが決定し1942年には起工されるはずであったが、大祖国戦争に突入したため計画は実行されなかった。ちなみに1938年〜1939年版のジェーン海軍年鑑ではプロジェクト71とほぼ同諸元の艦を空母クラースナヤ・ズナーミャと紹介し、1939年〜1940年にレニングラードで2隻が起工されると記載していた。
 プロジェクト71の諸元は次の通り。排水量10600 トン(ないし11350トン)で、全長195m・全幅18.7m。飛行甲板の大きさは全長215m・全幅24m。戦闘機20機と攻撃機10機の合計30機を搭載する。最大速度は34ノットであり経済巡航速度18ノットで3800マイルの航続距離を有する。装甲は舷側100mm〜75mm・飛行甲板90mm(?)〜12mm・艦橋50mm・格納庫12mm。砲熕火器として100mm両用砲8門・37mm4連装機関砲4基・12.7mm機関砲12門を備える。カタパルトを装備しているが、使用するのは悪天候か最大ペイロードで発艦する場合のみとされていた。


(↑プロジェクト72)
 大祖国戦争中の1944年に大戦の戦訓を反映した艦艇の設計をするように政府が要求を出し、1945年にはクズネツォフ主導のもと海軍人民委員部が設置した特別委員会で10ヶ年艦隊整備計画(1946年〜1955年)に備えた各種検討が行われることになったが、この対象に空母も含まれたことで再び保有のチャンスが訪れた。この計画において特別委員会は正規空母および軽空母を合計6隻建造することを提案したが認められず、潜水艦・駆逐艦巡洋艦を中心とした艦隊整備の方針が立てられた。
 プロジェクト71やグラーフ・ツェッペリンの経験をもとに大祖国戦争中にも空母研究は行われており、上述した特別委員会による空母設計とは別に1944年にЦНИИ-45でプロジェクト72という設計案が纏められた。しかし最終的にプロジェクト72は要求を満たしていないと判断された上に赤色海軍は空母の必要性を一応は認めていたものの(この時点に限ったことではなく戦前もそうであったが)空母に関する上層部の意思統一が図れず、最大の空母支持者であったニコライ・クズネツォフも1947年に失脚してしまい結局プロジェクト72は建造されなかった。
 プロジェクト72の諸元は以下の通り。基準排水量23700トン・満載排水量28800トン。喫水線長224m・喫水線幅27.9m。喫水は基準排水量時が7.23m・満載排水量時が8.45m。搭載機数は全30機。最大速力30ノット・経済巡航速度18ノットで航続距離10000マイル。装甲は舷側90mm・格納庫55m・飛行甲板30mm。砲熕火器は130mm連装両用砲8基・85mm連装両用砲8基・37mm連装対空機関砲12基・連装23mm対空機関砲24基を備える。



ソ連建造前史3
【参考】
戦前のソ連空母〜実現しなかった計画たち
livejournal
ソ連の空母開発1925年〜1955年
ソ連空母プロジェクト71とプロジェクト72
(ソ連の空母〜歴史と戦闘での使用)

ソ連空母建造前史1〜イズマイル/ポルタヴァ/コムソモーレツ

 ソ連の空母建造についてはモスクワ級からウリヤノフスク級に至るまでの経緯は比較的知られていますが、曲がりなりにも一種の空母としてモスクワ級が結実するまでに生まれた有象無象の計画についてはあまり知られていないようです。時代的にも自分の趣味対象からはやや外れていますが、一応記事にまとめる目処が立ち始めたので一連の経緯を認めてみることにしました。そこまで大層なものではありませんが完走し切るかもわかりませんし、資料の読み間違いや事実誤認もどこかにきっとあると思いますがどうかお付き合い下さい。

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 ソ連初の具体的な空母建造計画は、1925年に発案された建造途中の巡洋戦艦イズマイル(イシュマエル・Измаил)を改造するというものであった。
 イズマイルは巡洋戦艦としてアドミラルティ造船所で建造されていたが、クロンシュタットの反乱における反乱軍と赤軍の交戦でドックが損傷し、イズマイル自身も右舷中部甲板の後部にダメージを受けた。1921年9月3日にイズマイルは未完成のままドックから搬出されクロンシュタット軍港の外れの桟橋に係留され、最低限の整備は施されたものの1920年代の前半はそこで放置されることになる。1925年6月14日に軍事造船プログラムに関する会議が開催され、そこでイズマイルの空母への改造が発表された。1925年7月にソ連革命評議会が採択した”赤色海軍強化五カ年計画”ではソ連初となる空母1隻の建造が予定され、これはイズマイルを空母に改造することで達成されることになっていた。ただし1925年3月には既にイズマイルの改造について決定されていたとする資料もある。イズマイルの改装は1926年2月から1928年8月1日の間に行われることになり、総工費は14,334,000ルーブル(造船費用10,600,000ルーブルと各種兵装3,734,000ルーブル)と見積もられた予備設計プランも作成されたが、1926年3月16日にイズマイルの空母改造は資金不足を理由に中止されてしまった。これは予算配分で陸軍(赤軍)が重視されたためである。計画中止に伴い、イズマイルはスクラップにされることになった。しかし機関の据え付けや全ての水平装甲と垂直装甲の2/3の取り付けが完了している巨大な巡洋戦艦を廃棄するのはあまりに無駄であるということで、1930年代初めにイズマイルを使用して艦船の装甲や防御構造及び戦闘について実験を行う計画が立てられた。異なる距離や角度から砲弾を発射しどの様な場合に装甲を貫通することが出来るのかという実験が行われた。また120kg、250kg、500kgのTNT火薬を詰めた弾頭を持つ魚雷に近接信管を取り付けて発射する雷撃実験も行われ新たな知見を得ることに貢献した。赤色空軍はイズマイルを標的にして爆撃を繰り返し、対艦爆撃の失敗率に関する経験を得ることが出来た。これら全ての広範な実験は赤色海軍や赤色空軍あるいはその他の数多くの当事者たちと予定をすり合わせて実施しなければならないほど頻繁に行われたが、1930年秋には予算の都合で実験は終了しイズマイルは今度こそスクラップにされた。1931年から解体が始まり、1932年4月の時点でイズマイルは喫水線より上の構造物を失っていたが、興味深いことにこの時点でもなお喫水線下への攻撃を行う実験が計画されていたという。

(↑イズマイルの進水式)
 赤色海軍科学技術委員会が行った将来空母に関する決定よれば、空母はバルト海での行動が想定され、敵基地攻撃への従事や外洋での艦隊戦で制空権確保・敵艦船攻撃を行うことが求められた。艦隊に所属する艦艇としては継続的な空中哨戒・航空偵察の役割を担うことが期待された。
 空母イズマイルの排水量は22000トンと見積もられ、巡洋戦艦からの改造ではあるが、(初期のフューリアスなどとは異なり)飛行甲板は艦の全長及び全幅一杯まで切れ目なく続く全通式となっており、その艦首部分には2基のカタパルトを装備することになっていた。艦載機は50機の搭載を予定し、内訳は戦闘機27機・雷爆撃機12機・偵察機6機・観測機5機であった。これら艦載機のための格納庫は上甲板と飛行甲板の間に設けられ、艦載機の移動に必要な高さが確保されていた。敵の軽巡洋艦や航空攻撃から身を守るために、空母はそれぞれ8基の7.2mm機関銃と100mm〜127mmクラスの艦砲及び2基の40mm機関砲を搭載したが、魚雷発射管は装備されなかった。装甲については2つの案が提案され、1つ目は巡洋戦艦時代の側面装甲の代わりに喫水線部分に75mmの装甲を施すという案で、2つ目は装甲を廃止するという案であった。推進機関は巡洋戦艦時代のものをそのまま流用しており、重い艦砲を撤去したため速力は27〜30ノットに達すると考えられている。航続距離は全速で1000マイル、経済巡航速度で3000マイルとされている。
 

 同時期の未成艦の空母転用計画としては他に戦艦ポルタヴァ改造計画(あるいはミハイル・フルンゼ改造計画)があり、これがソ連で2番目の空母建造計画になる。
 戦艦ポルタワはガングート級戦艦3番艦としてアドミラルティ造船所で建造中だった1919年11月25日に第一ボイラー室から出火し12〜15時間後に消化されたものの、2基の蒸気ボイラー・中央の砲塔関連施設・電気配線や発電機を焼失してしまった。修復が試みられたものの財政面から断念され、資材は他の姉妹艦に転用された。1924年9月2日に艦砲はポルタヴァから完全に撤去され、1926年1月7日に艦名がミハイル・フルンゼに変更された。艦の処遇については単純に元の状態に復元することが考えられたが、空母に改造した上で黒海艦隊に編入する案も挙げられた。しかし1927年8月5日に結局ミハイル・フルンゼは新型の機関を搭載したガングート級戦艦として完成させることが決定され空母への改造は行われなかった。なおその後もミハイル・フルンゼの建造は資金の問題などから遅々として進まず、大祖国戦争ではドイツ空軍に対する囮として未完成のままクロンシュタットに係留されるという一応の活躍をしたが1946年に解体された。
 空母としてのポルタヴァ/ミハイル・フルンゼは2基の76mm砲と10基の対空砲を有し4基の魚雷発射管を装備することになっていた。元が戦艦であるため側面で最大250mm・水平面で最大100mmという空母イズマイルと較べても堅牢な装甲を持ちながら見積もりでは全速で30ノットを発揮できたという。航続距離は全速で1800マイル、経済巡航速度で3800マイル。艦載機を50機搭載できる。


 これらに続いて提案されたのが、3番目の改造計画になるコムソモーレツ改造案である。

(↑練習艦コムソモーレツ)
 コムソモーレツは客船を原型とした練習艦で、1903年3月5日に就役していた。1927年に共和国革命軍事会議はコムソモーレツを練習空母として改造する決定を下し、SHON(ШОН)と呼ばれる攻撃機も試作されたが技術設計及び船体の近代化の資金が不足したため計画は中止されてしまう。陸軍(赤軍)を重視する当時のソ連の”小さな海軍”コンセプトは空母と相容れないものであったのもその要因と考えられる。そしてこのコムソモーレツ改造計画以降しばらくは空母建造計画が立案されることは無く、ソ連の空母保有計画は1930年代半ばの大規模な艦隊拡張まで待たなければならなかった。
 空母コムソモーレツの排水量は1万2千トンで、航空機を42機(戦闘機26機・攻撃機16機)搭載し、砲熕兵器として102mm連装両用砲と40mm対空砲を備える。速力は客船ベースの艦であるからか15ノットと低速である。ただし下の図を見ればよくわかると思うがどう見てもまともな方法ではコムソモーレツの大きさで42機も航空機が載るとは思えないので、これはおそらく最大限運搬可能な機数という程度の意味合いだと思われる。

(↑コムソモーレツ空母改造案)
 
 コムソモーレツで艦載機として考えられたのは攻撃機ШОН(ShON)で、これらはソ連最初期の空母艦載機であり、言い換えればイズマイルあるいは同時期のミハイル・フルンゼが改造計画の俎上に上がっていた当時はロシア国内に艦載機は存在して居なかったということになる。イズマイルの時には外国機の輸入を考えていたようだが、政府は輸入を断ったという。

(↑主翼を折りたたんだШОН)
 ШОНはЦКБが開発していた陸上襲撃機のТШ-2(TSh-2)を艦載機化したもので、1930年4月末から開発が開始され1931年に初飛行した。ドイツのBMW VIエンジンを単発で搭載し、680馬力の出力を有する。主翼は木製布張りで空母での運用の為に主翼は折りたためるようになっている。武装は5丁の7.62mm機関銃と400kg爆弾である。元々が陸上襲撃機だったШОНの機関銃は自衛用で旋回式の1丁を除く4丁が斜め下向きに取り付けられており、飛行しながら地上に機銃掃射するのに便利なようになっていた。
 ШОНの飛行性能は優秀であったがコムソモーレツの空母改造計画が中止されたため艦載機としての道は閉ざされてしまった。


ソ連空母建造前史2
【参考】
戦前のソ連空母〜実現しなかった計画たち
Библиотека ВМФ 「巡洋戦艦イズマイル」
istmat.info
(ソ連の空母〜歴史と戦闘での使用)

ゼレノドリスク工場は黒海艦隊向けにプロジェクト22160コルベットの3番艦を建造する

(FLOTPROMより)
 プロジェクト22160は領海の防衛・排他的経済水域のパトロール・密輸や海賊の取り締まり・海難事故被害者の捜索及び支援・環境モニタリングの為に設計いる。排水量1300トンという小型の艦船であるにも関わらず、プロジェクト22160は80人の乗組員が搭乗した状態で2ヶ月の自律行動が可能になっている。動力は2機のエンジンを組み合わせたCODAG方式で、発電能力は25000kWになる。CODAG方式では、経済速度で航行する場合は1機のディーゼルエンジンのみを稼働させ長い航続距離を実現させ、30ノットでの全力航行を行う場合はディーゼルエンジンに加えてガスタービンも同時に使用する。捜索能力拡充や捜索救難任務の為に、12トン級ヘリコプターを搭載することが出来る。標準的な武装としては巡航ミサイル"カリブル"を搭載する。
 プロジェクト22160の1番艦"ワシーリー・ビコフ"は2014年2月26日に起工された。2番艦は2014年7月25日に"ドミトリー・ロガチェフ"と命名された。3番艦は、ソ連海軍で最も栄誉ある艦長でもある大祖国戦争ソビエト連邦英雄パーヴェル・イヴァノヴィッチ・デルジャーヴィンの名を冠する。彼は大祖国戦争当時にドナウ小艦隊で旅団長を務めていた。
【以上】

(↑プロジェクト22160)
 プロジェクト22160はコルベット哨戒艦クラスの艦ですが、2ヶ月にも及ぶ長い行動期間を持ちその航続距離は約6000海里にも及びます。より大型のステレグシュチイ級の航続距離が3500海里で行動期間が15日でしかないのと比べると、長期間の作戦行動が可能であり十分に大洋ゾーン艦を名乗れることがわかります。一方でその排水量は1300トンでしかなく、搭載できる兵装やセンサーには限界が有るために決してより大型の艦船を置き換えることは出来ません。小型であるため大洋ゾーン艦と言ってもその行動には海面状況など一定の制限が掛かることも想像できます。遠距離に進出して長期間に渡り哨戒を中心にした多様な任務を遂行できるコルベットというのがプロジェクト22160の本質でしょう。
 プロジェクト22160は黒海艦隊と北方艦隊向けに12隻が建造予定です。当初は6隻の予定でしたが、大洋ゾーン艦が不足しているという理由で追加が決定されています合計6隻が2020年までに建造予定です。このクラスの艦に多様な装備を搭載することはコスト高を招くという理由から艦砲とヘリコプターに限定されていましたが、ISILに対してカリブルによる攻撃を実行した頃にプロジェクト22160にもカリブルを搭載することが決定されました。プロジェクト22160はモジュール構造でありカリブルの追加搭載も可能ですが、西側諸国では往々にしてモジュール転換の手間や乗組員の慣熟の都合からモジュールは装備したままあるいは外したままになる傾向があるようなので歓迎すべき決定でしょう。これによってプロジェクト22160は哨戒艦というクラスを超えた火力を手に入れることになります。
 ヘリコプターを搭載可能なことも本艦の価値を高めていることは言うまでもありません。例示されていた密輸のパトロールや捜索救難ではヘリコプターが効率を大きく改善します。12トン級という数字とCGからKa-27シリーズの搭載を想定しているようです。ロシア国防省発表ではKa-27PS搭載とのことです。

 改キロ級からの巡航ミサイル攻撃の疑問

 Flot.comより
専門家はロシアの最新鋭潜水艦” ロストフ・ナ・ドヌー”がISILに対して行ったカリブルミサイルの発射について疑問を抱いています。専門家によると、攻撃が行われたとされる日に” ロストフ・ナ・ドヌー”はミサイルをISILが首都と称するラッカに対して発射することは出来なかったはずだということです。
 専門家及びブログ”navy-korabel”の執筆者Александра Шишкинаは” ロストフ・ナ・ドヌー”はクロンシュタットを11月4日に出港し、それ以降は平均約7.5ノットで航行しているのでミサイル攻撃を行ったとされる11月17日にはカリブルの射程外のジブラルタル海峡にたどり着くのが精一杯だと主張しています。Александра Шишкинаは潜水艦の平均航行速度を約7.5ノットと見積り、ミサイル攻撃があったはずの時点で潜水艦は地中海の西の端に居たという推測をしています。しかしこの場合でもラッカまでの距離は2300km以上であり、カリブルの射程外です。
 ” ロストフ・ナ・ドヌー”とほぼ同等の潜水艦であるB-261”ノヴォロシースク”艦長を務めるИгорь Курганов中佐は「もし” ロストフ・ナ・ドヌー”が同じ平均速度で浮上航行していたのであれば、11月17日の朝にジブラルタル海峡に差し掛かったといったところでしょう。そして事実そうであったのならミサイル発射は明らかに不可能です。また、巡航ミサイルの飛行経路の観点からしても極めて遠回りであり不便です。もし” ロストフ・ナ・ドヌー”がディーゼルエンジンではなくバッテリーを使用して潜行したのであったとしても(欧米の偵察衛星に潜水艦が撮影されていないのでその可能性は高い)地中海の西部に到達するのが精々で、カリブルの射程ギリギリの場所です。」と語っています。
 専門家によれば、浮上航行する潜水艦の最高速度は12ノット以下で平均的には7.5〜8.5ノットです。どれくらい速度が出るかは、シーステートやその他の要素に大きく左右されます。潜行した潜水艦の最高速度は19ノットにもなりますが航続距離は400マイルしか無く、それ以上航行するには浮上してバッテリーを充電する必要があります。潜行と浮上を繰り返した場合の平均速度は約15ノットまで落ちます。クロンシュタットを出港した時点で燃料が満タンであっても、しかしこれでは燃料を節約することは実際にはできません。経済航行速度の3ノットを保てば潜水艦は7000マイルの航続距離を得ることが出来ます。
 メディア報道によれば、潜水艦” ロストフ・ナ・ドヌー”は11月17日にISILが首都と称するラッカに対して巡航ミサイル攻撃を行ったとされていますがこれについての公式発表はありません。ただ、” ロストフ・ナ・ドヌー”が11月に補給を受けるためにクロンシュタットに立ち寄り、その際に埠頭の1つは軍によって閉鎖され道路は軍事車両で封鎖されていたというのは注目に値する興味深い出来事です。
 -以上-



 カスピ小艦隊からのカリブル発射やTu-160・Tu-95SMからの巡航ミサイル攻撃は大々的に発表されているのに対して、行われたとされる潜水艦からのカリブル発射はあくまでも国防省筋の情報としてメディアが伝えているものであり公式発表はされていません。そのため本当に攻撃が有ったのかどうか疑問視されており、簡単な検証を行っているのがこの記事です。ディーゼルエンジンで浮上航行した場合でも水中航行した場合でもカリブルの射程内に” ロストフ・ナ・ドヌー”が到達しえたという確証は得られないと結論づけています。一方でクロンシュタットで補給を受ける際に厳重な警備が敷かれていたというのは興味深いことですが、カリブル自体は平時から積載していた可能性もあるのでクロンシュタットでの補給で新たに積みこんだとは限らないないでしょうし普段の警備体制との違いもあまり良くわからないので判断材料としては微妙なところでしょうか。なお、対地攻撃型カリブルの最大射程は2500kmとされています。