ソ連空母建造前史3〜グラーフ・ツェッペリン

ソ連空母建造前史2

 前回でもソ連がドイツ視察を行った際に建造中の空母グラーフ・ツェッペリンを見学するなど一定の興味を抱いていたことが伺えるエピソードを紹介したが、このグラーフ・ツェッペリンソ連の空母研究に少なからず影響を及ぼしているので独立した項目で取り扱うことにした。

(↑進水式を迎えるグラーフ・ツェッペリン)


 ソ連が1930年代に第3次五カ年計画に基づく大規模外洋艦隊整備計画を策定したことは既述であるが、空母グラーフ・ツェッペリンもまたこれとほぼ同時期に建造が行われていた。同艦は1935年11月16日に発注され1936年12月18日に起工されている。当然ソ連も一定の情報は得ていたはずであり、艦隊整備計画を考える上でその存在が何かしらの影響を与えていてもおかしくはない。セルゲイ・ゴルシコフによれば、1930年代にスターリンが海軍拡張を決意したのはシベリア出兵の様な資本主義諸国のロシア革命への介入の際にソ連海軍が有効な行動を起こせなかったということやスペイン内戦時にも海上戦力の不足で人民戦線支援が思うように出来なかったという出来事が遠因になっていると言う。北方艦隊近くの空母を擁する海軍と言えば当時はイギリス海軍とフランス海軍があったがグラーフ・ツェッペリン建造によってドイツ海軍もこれに加わる事になり、資本主義諸国に対抗できる海軍力を整備するという目的を達成するためにソ連が空母保有を検討するのは自然なことだと言えるだろう。ドイツの空母建造は英独海軍協定によって可能になったものだが、協定締結後に実際にグラーフ・ツェッペリン建造を開始したことでフランスはこれに対抗するために同国初の改造空母ベアルンから10年ぶりにジョッフル級正規空母を建造することになった。ソ連にせよフランスにせよグラーフ・ツェッペリンがすべての理由では無いにしても、この時点で既に空母建造の決定に影響を与えているのは間違いない。(しかしソ連の空母は勿論ジョッフル級も完成には至らなかった。そして当のグラーフ・ツェッペリンも未成に終わったのだからなんとも言えない虚しさがある)

(↑空母グラーフ・ツェッペリン)


 さて、ソ連グラーフ・ツェッペリンないしその同型艦購入をドイツに打診したという1939年〜1940年は大祖国戦争勃発前であり、独ソ不可侵条約締結が締結されていることもあってソ連とドイツ間の関係は表面上は悪いものではなかった。ドイツは連合軍の上陸を阻止するために大西洋の壁と呼ばれる防衛網構築を開始し、それらの資材確保や優先順位の問題から1940年6月にグラーフ・ツェッペリン建造は完成率90%前後に達しながらも中断される。ソ連の購入打診もおそらくはこういう情勢をある程度踏まえて行われたと考えられるが、ドイツはこれを拒否し高射砲の射撃指揮装置の売却のみ認めたに過ぎなかった。最終的にグラーフ・ツェッペリンソ連軍の接収を避けるため1945年4月25日に自沈するが、戦後に浮揚されソ連海軍の管理下に置かれることになる。

(↑ソ連軍に鹵獲されたグラーフ・ツェッペリン)


 ここからの事実説明だけではあまりにあっさりしすぎているので、ドイツ国防海軍解体の経緯を織り交ぜて少し解説する。1946年1月23日付けのプラウダ紙が「イギリス・アメリカ・ソ連は三ヶ国海軍委員会を組織してドイツ国防海軍艦艇の分割を行うという公式声明を発した」と報じているが、ソ連からは軍事造船中央研究所の長だったアレクセーエフ・ニコライ・ヴァシーリエヴィチ技術少将が代表として参加したこの委員会でドイツ国防海軍の物質的な解体と戦勝国への山分けが行われることになる。
 実際にこの作業を行う前にまず現存する艦艇のリストアップとカテゴライズが成された。余談になるが艦艇がリストアップされた結果、ドイツ国防海軍は大戦中に戦闘艦艇の50%を喪失しさらに13%が降伏期間中に沈没しており、当時連合国が管理していたのは30%程度だったという。リストの内訳は戦艦1隻(グナイゼナウ?)、重巡洋艦1隻(プリンツ・オイゲン?)、軽巡洋艦1隻(ニュルンベルク?)、駆逐艦30隻、潜水艦30隻、掃海艇132隻、護衛艦17隻、防空砲艦8隻、魚雷艇89隻とのこと。ちなみに議論が最も紛糾したのは2100隻以上にも及ぶ支援艦艇の行き先を決定する時だったとか。数が多いことに加えて、戦闘艦よりは転用もし易いだろうからそれだけ価値があるということだろうか。
 リストアップが終われば次はカテゴライズである。艦艇のコンディションに従って分類され、最も状態がよく直ちに戦力化可能なカテゴリーA、6ヶ月以下の修復で戦力化できると見積もられたカテゴリーB、浸水・損傷しているか未成艦であるなどの理由で戦力化に6ヶ月以上必要なカテゴリーCという風になった。この3つのカテゴリーから戦勝国に艦船を割り当てる事になるが、三ヶ国海軍委員会はカテゴリーCについては速やかに解体するか大深度に自沈させるよう勧告していたようだ。このカテゴリーCに含まれそうな船を思い浮かべると上述したリストの内訳の数を明らかに上回りそうなものだが、そのあたりの事情は時間もかかるので傍論ということで調べていない。
 そして肝心のグラーフ・ツェッペリンソ連に割り当てられたがカテゴリーCに分類されていた(グラーフ・ツェッペリンは上のリストの内訳に入っていないと思われるが...)。ソ連グラーフ・ツェッペリンを自らの手で完成させることを真剣に検討したが、先程も述べた「カテゴリーCの船は解体しましょう」という勧告(当事者が当事者に向かって勧告しているのだからもはや約束と言っても過言ではない)とドイツが用意していた艤装の多くが西側占領地域に保管されており西側はそれらの移動を一切認めなかったという事情のため計画は断念されることになった。後者の理由の詳細は分かりかねるが、グラーフ・ツェッペリンキールにあるドイチェヴェルケの造船所で起工されており後に未完成のままポーランドのシュチェチンへ移動してそこで自沈している。キールは西側が占領することになるが、恐らくグラーフ・ツェッペリンに取り付けられていない艤装はキールかその近くに留められたままだったためにそういう事情が生じたのだと思われる。ただしニコライ・クズネツォフはグラーフ・ツェッペリンをあくまでも国産空母のテストベッドとして考えていたようなので、同艦を完成させようとした意図は当時ソ連で設計が行われていたプロジェクト72の代艦というわけでは無い。空母として運用する見込みが無くなったためか1947年2月3日には洋上基地PB-101という扱いに変更されたがここではグラーフ・ツェッペリンのまま通すことにする。


 ソ連は完成を断念したグラーフ・ツェッペリンを最大限有効に活用する為に、実弾を用いて撃沈することで空母の生存性を検証することを思いついた。単なる実弾演習という意味以上に、空母を撃沈する経験を積むことで来るべき米ソ戦争で高価値目標となるはずの米空母への備えという意味も有ったに違いない。1930年代頃にもイズマイルを標的に実弾を発射しているが、空母に改造されなかったイズマイルの構造は巡洋戦艦のそれであり最終的には撃沈せずにスクラップとして処理されている。そして言うまでもなくこの15年程度の間の航空機の進歩は目覚ましいものが有ったのだから、改めてグラーフ・ツェッペリンで実験を行うことは基調な経験をもたらしてくれるはずだった。
 この実験の為にイワン・ユマシェフ海軍大将は1947年5月17日に特別委員会の設置を命じ、ラール・ユーリー・ヒョードルヴィチ海軍中将の指揮のもと計画は開始された。グラーフ・ツェッペリンに前もって仕掛けておいた弾薬を起爆させ構造の弱体化を調査した後に航空爆撃と巡洋艦からの砲撃を行い最後に雷撃でとどめを刺すという手順が演習という形で定められ、また攻撃はあらゆる距離・深度に対して行うことで可能な限りデータを得ることが出来るように留意された。しかしグラーフ・ツェッペリンの状態は未成艦であることを差し引いても褒められたものではなく、トリム調整無しだと0.5度右に傾いた状態が標準で船体には人為的に作られた最大で1.5m×1mほどの穴が36もありボイラーや蒸気タービンなど動力関係の機器もドイツ人によって破壊されていたという有様で、それら破壊工作の為に水密隔壁も破られてしまっていた。水面下にも最大幅0.8mの亀裂が0.3mほど続いており、スクリュープロペラは取り外され飛行甲板に転がっていた。その飛行甲板やエレベーターも傷ついて大きな凹みが生じており、ソ連は実験を行う前にまずこれらの損傷をドイツで修理しなければならなかった。艦の排水ポンプを復旧させて穴や亀裂の封印や12ヶ所の水密隔壁の復元が行われたが、あくまで標的艦としての使用なので修理は必要最小限に抑えられ喫水線より上の部分については必要な労力と時間不足のために一部作業が省略された。1947年8月14日にはポーランドのシフィノウイシチェ港外まで曳航され、更に砕氷船ヴォーリニェツ及び曳船MB-44・MB-47・T-714・T-742・VM-902によって5マイル離れた射爆海域まで移動させられた。事前の修復にも関わらずこの時点で排水不良により左に3度傾斜していたという。また8月15日の夜から16日にかけて主錨の鎖が不良であることが判明したため副錨のみで錨泊することになったが、完全に位置を保つことは出来ずほんの僅かに漂流しておりこれが実験に大きな影響を与えることになる。

(↑曳航されるグラーフ・ツェッペリン)


 8月16日の朝から実験は行われ、まず船体に仕掛けられた弾薬が起爆された。煙突のFAB-1000航空爆弾1発および飛行甲板下部のFAB-1000航空爆弾3発と180mm艦砲の榴弾2発が最初に炸裂し、続いて飛行甲板に設置された別のFAB-1000が爆発した。3番目の爆発は飛行甲板上のFAB-250と格納庫上部の180mm砲弾2発が同時に起爆することでもたらされ、4番目には飛行甲板直上2.7mに据え付けられたFAB-500と飛行甲板上のFAB-250そしてC甲板のFAB-100が同時に起爆された。そして最後に飛行甲板上のFAB-500とFAB-100が爆発して一連の手順が終了した。
 最初に煙突で起爆したFAB-1000はあまり効果的ではなく、煙突の破壊には成功したものの爆風は艦橋に危害を加えるに至らずまたボイラーにも致命的なダメージを与えられなかっが、その一方で飛行甲板下部の3発のFAB-1000(飛行甲板に埋め込まれたものとそうでないものが混ざっていた)は爆発の衝撃波で格納庫を破壊した。1発のFAB-1000による二番目の爆発は半径7mの範囲にわたって飛行甲板に歪みを生じさせたが、飛行甲板を破壊するまでは行かず直径3cmの穴を開けただけだった。ソ連海軍はこの”戦果”を低く評価した様だが、飛行甲板の機能を奪うという目的であれば半径7mの歪みを生じさせた時点で十分達成されており当時の海軍上層部の空母に対する認識の不足が伺える。三番目の爆発でFAB-250は直径0.8mの穴を開けることに成功し、更に爆心から半径1.3mの範囲内で飛行甲板が無力化された。これは最初の爆発で180mm艦砲が与えたダメージとほぼ同等である。四番目の爆発の結果はそれまでに蓄積していた損傷と爆発の与えた影響が小さかったという可能性のために十分に確認することが出来なかった。しかし最後の五番目の爆発の影響ははっきり確認することができた。この5番目の爆発で使用された爆弾は爆発の運動エネルギーの浸透効果を調査するために異なる深さに埋め込まれたりあるいは飛行甲板を切り欠いて設置していた。FAB-500の起爆によって飛行甲板に半径3.5m深さ0.5mの穿孔が生じさせ、FAB-100は格納庫に穴を開けてその中をめちゃくちゃにしてしまうほどだった。
 続いて航空攻撃が実施された。第12親衛戦闘機航空連隊のパイロット39名と25機のPe-2がこれに従事し、事前に訓練が行われている。事前準備としてグラーフ・ツェッペリンの飛行甲板に5m幅の白線で20m×20mの十字がペイントされ、おそらくこれを目標に攻撃したと思われる。攻撃は三波に分けて行われ、第一波は高度2070mからP-50爆弾28発を投下し第二波は同高度からP-50爆弾36発を投下し最後の第三波はP-50爆弾24発を投下した。このうち3機はトラブルにより爆弾を海面に投下せざるを得なかったがそれを抜きに考えても結果は酷いもので、ほぼ静止していて対空砲火もない巨大な目標に90発近い爆弾を投下したにも関わらず命中したのはわずか6発でしかも飛行甲板にダメージを与えられたのは5発という成績に終わった。パイロットは朝から行われた実験で既に損傷していた部分にも命中弾があったと主張したがそれを含めても11発にす過ぎない。一方で使用されたP-50爆弾は訓練用なので空母を破壊するには威力が不足しているという点が指摘されており、また経験の少ないパイロットは視界不良を訴えていたためそういった要因が働いた可能性もあるが、それでもP-50のうち1発は1m貫通し対空砲火に晒されないパイロットはストレス無く照準できたはずであるためにこの結果は優れているとはいえないと判断された。
 日が明けて8月17日になると天候が崩れ始め風速5〜6の風が吹くようになり主錨を使用できないグラーフ・ツェッペリンは浅瀬へ向けて大きく漂流し始めた。水深113mの地点で実験が開始されたが、弾薬を起爆する実験の第一段階が終了した時点で既に水深82mの地点まで流されてしまっており、浅瀬に近づき過ぎるとグラーフ・ツェッペリンを完全に沈没させることができなくなる恐れがあったためラール・ユーリー・ヒョードルヴィチ海軍中将は実験を中止して速やかに雷撃処分する決断を下した。このため黒海艦隊の巡洋艦モロトフ(マクシム・ゴーリキー級/プロジェクト26 bis)が行うはずだった180mm砲による砲撃はキャンセルされ雷撃処分を行うバルト艦隊の魚雷艇TK-248、TK-425、TK-503及び駆逐艦スラーヴヌイ、ストローギイ、ストローイヌイ(いずれもストロジェヴォイ級駆逐艦/プロジェクト7U)が現場へ向かった。最初にTK-248が雷撃を敢行したが魚雷は起爆せず艦底下を通過し失敗に終わる。続いて15分後にTK-503が雷撃し命中させたものの致命傷を与えることは出来なかった。さらに一時間後に駆逐艦スラーヴヌイが到着し魚雷を発射した。魚雷はエレベーターの喫水線下に命中し徐々に艦体が傾き始め、15分後には傾斜は25度にも達し艦首も持ち上がり始めた。その更に8分後(スラーヴヌイの魚雷命中から23分後)にはグラーフ・ツェッペリンは横倒しになり艦首は25度持ち上がった状態になり沈没した。2006年に水深87mの地点に沈没船があることが発見され、ポーランド海軍によってそれがグラーフ・ツェッペリンであることが確認されている。


 ソ連グラーフ・ツェッペリンを撃沈するのに要した火力は船体に装着された爆弾12発(FAB-1000×2・FAB-500×2・FAB-250×3・FAB-100×5)及び180mm艦砲榴弾4発(合計92kg)、爆撃で命中したP-50爆弾6発そして最後の雷撃で命中した533mm魚雷2発であった。これを評価するにあたっては当時のグラーフ・ツェッペリンが完全な状態でなかった事に留意する必要がある。上述したように水密隔壁は後から修理したもので、また喫水線より上は修理されていない部分さえ有った上に航空爆撃と雷撃の前には弾薬の起爆によって損傷が蓄積していたのだ。そして船にはダメージコントロールを行う乗組員が居なかったし、空母を護衛する船も居なければ動きさえしていなかった。確かに被害を拡大させる燃料などは積み込まれていなかったがそれでもグラーフ・ツェッペリン側が不利な条件が揃っていたと言うことができ、グラーフ・ツェッペリンが空母としても脆弱であったと言うまでは至らないであろう。
 そして当時ソ連国内では国産空母としてプロジェクト72のさらに次世代の空母が研究されており、実際にグラーフ・ツェッペリンは彼らに影響を与えているのだ。これまでほぼ空母を机上の存在としてしか認知できなかったソ連が実際に触れることができた空母としてグラーフ・ツェッペリンの果たした役割は大きいといえる。次回以降でグラーフ・ツェッペリンの足跡が刻まれたソ連の空母設計案を見ていきたい。


ソ連空母建造前史4
【参考】
空母グラーフ・ツェッペリン〜赤軍の戦闘のトロフィー
WarGaming.net wiki "グラーフ・ツェッペリン"
Aircraft carrier Graf Zeppelin