ソ連空母建造前史1〜イズマイル/ポルタヴァ/コムソモーレツ

 ソ連の空母建造についてはモスクワ級からウリヤノフスク級に至るまでの経緯は比較的知られていますが、曲がりなりにも一種の空母としてモスクワ級が結実するまでに生まれた有象無象の計画についてはあまり知られていないようです。時代的にも自分の趣味対象からはやや外れていますが、一応記事にまとめる目処が立ち始めたので一連の経緯を認めてみることにしました。そこまで大層なものではありませんが完走し切るかもわかりませんし、資料の読み間違いや事実誤認もどこかにきっとあると思いますがどうかお付き合い下さい。

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 ソ連初の具体的な空母建造計画は、1925年に発案された建造途中の巡洋戦艦イズマイル(イシュマエル・Измаил)を改造するというものであった。
 イズマイルは巡洋戦艦としてアドミラルティ造船所で建造されていたが、クロンシュタットの反乱における反乱軍と赤軍の交戦でドックが損傷し、イズマイル自身も右舷中部甲板の後部にダメージを受けた。1921年9月3日にイズマイルは未完成のままドックから搬出されクロンシュタット軍港の外れの桟橋に係留され、最低限の整備は施されたものの1920年代の前半はそこで放置されることになる。1925年6月14日に軍事造船プログラムに関する会議が開催され、そこでイズマイルの空母への改造が発表された。1925年7月にソ連革命評議会が採択した”赤色海軍強化五カ年計画”ではソ連初となる空母1隻の建造が予定され、これはイズマイルを空母に改造することで達成されることになっていた。ただし1925年3月には既にイズマイルの改造について決定されていたとする資料もある。イズマイルの改装は1926年2月から1928年8月1日の間に行われることになり、総工費は14,334,000ルーブル(造船費用10,600,000ルーブルと各種兵装3,734,000ルーブル)と見積もられた予備設計プランも作成されたが、1926年3月16日にイズマイルの空母改造は資金不足を理由に中止されてしまった。これは予算配分で陸軍(赤軍)が重視されたためである。計画中止に伴い、イズマイルはスクラップにされることになった。しかし機関の据え付けや全ての水平装甲と垂直装甲の2/3の取り付けが完了している巨大な巡洋戦艦を廃棄するのはあまりに無駄であるということで、1930年代初めにイズマイルを使用して艦船の装甲や防御構造及び戦闘について実験を行う計画が立てられた。異なる距離や角度から砲弾を発射しどの様な場合に装甲を貫通することが出来るのかという実験が行われた。また120kg、250kg、500kgのTNT火薬を詰めた弾頭を持つ魚雷に近接信管を取り付けて発射する雷撃実験も行われ新たな知見を得ることに貢献した。赤色空軍はイズマイルを標的にして爆撃を繰り返し、対艦爆撃の失敗率に関する経験を得ることが出来た。これら全ての広範な実験は赤色海軍や赤色空軍あるいはその他の数多くの当事者たちと予定をすり合わせて実施しなければならないほど頻繁に行われたが、1930年秋には予算の都合で実験は終了しイズマイルは今度こそスクラップにされた。1931年から解体が始まり、1932年4月の時点でイズマイルは喫水線より上の構造物を失っていたが、興味深いことにこの時点でもなお喫水線下への攻撃を行う実験が計画されていたという。

(↑イズマイルの進水式)
 赤色海軍科学技術委員会が行った将来空母に関する決定よれば、空母はバルト海での行動が想定され、敵基地攻撃への従事や外洋での艦隊戦で制空権確保・敵艦船攻撃を行うことが求められた。艦隊に所属する艦艇としては継続的な空中哨戒・航空偵察の役割を担うことが期待された。
 空母イズマイルの排水量は22000トンと見積もられ、巡洋戦艦からの改造ではあるが、(初期のフューリアスなどとは異なり)飛行甲板は艦の全長及び全幅一杯まで切れ目なく続く全通式となっており、その艦首部分には2基のカタパルトを装備することになっていた。艦載機は50機の搭載を予定し、内訳は戦闘機27機・雷爆撃機12機・偵察機6機・観測機5機であった。これら艦載機のための格納庫は上甲板と飛行甲板の間に設けられ、艦載機の移動に必要な高さが確保されていた。敵の軽巡洋艦や航空攻撃から身を守るために、空母はそれぞれ8基の7.2mm機関銃と100mm〜127mmクラスの艦砲及び2基の40mm機関砲を搭載したが、魚雷発射管は装備されなかった。装甲については2つの案が提案され、1つ目は巡洋戦艦時代の側面装甲の代わりに喫水線部分に75mmの装甲を施すという案で、2つ目は装甲を廃止するという案であった。推進機関は巡洋戦艦時代のものをそのまま流用しており、重い艦砲を撤去したため速力は27〜30ノットに達すると考えられている。航続距離は全速で1000マイル、経済巡航速度で3000マイルとされている。
 

 同時期の未成艦の空母転用計画としては他に戦艦ポルタヴァ改造計画(あるいはミハイル・フルンゼ改造計画)があり、これがソ連で2番目の空母建造計画になる。
 戦艦ポルタワはガングート級戦艦3番艦としてアドミラルティ造船所で建造中だった1919年11月25日に第一ボイラー室から出火し12〜15時間後に消化されたものの、2基の蒸気ボイラー・中央の砲塔関連施設・電気配線や発電機を焼失してしまった。修復が試みられたものの財政面から断念され、資材は他の姉妹艦に転用された。1924年9月2日に艦砲はポルタヴァから完全に撤去され、1926年1月7日に艦名がミハイル・フルンゼに変更された。艦の処遇については単純に元の状態に復元することが考えられたが、空母に改造した上で黒海艦隊に編入する案も挙げられた。しかし1927年8月5日に結局ミハイル・フルンゼは新型の機関を搭載したガングート級戦艦として完成させることが決定され空母への改造は行われなかった。なおその後もミハイル・フルンゼの建造は資金の問題などから遅々として進まず、大祖国戦争ではドイツ空軍に対する囮として未完成のままクロンシュタットに係留されるという一応の活躍をしたが1946年に解体された。
 空母としてのポルタヴァ/ミハイル・フルンゼは2基の76mm砲と10基の対空砲を有し4基の魚雷発射管を装備することになっていた。元が戦艦であるため側面で最大250mm・水平面で最大100mmという空母イズマイルと較べても堅牢な装甲を持ちながら見積もりでは全速で30ノットを発揮できたという。航続距離は全速で1800マイル、経済巡航速度で3800マイル。艦載機を50機搭載できる。


 これらに続いて提案されたのが、3番目の改造計画になるコムソモーレツ改造案である。

(↑練習艦コムソモーレツ)
 コムソモーレツは客船を原型とした練習艦で、1903年3月5日に就役していた。1927年に共和国革命軍事会議はコムソモーレツを練習空母として改造する決定を下し、SHON(ШОН)と呼ばれる攻撃機も試作されたが技術設計及び船体の近代化の資金が不足したため計画は中止されてしまう。陸軍(赤軍)を重視する当時のソ連の”小さな海軍”コンセプトは空母と相容れないものであったのもその要因と考えられる。そしてこのコムソモーレツ改造計画以降しばらくは空母建造計画が立案されることは無く、ソ連の空母保有計画は1930年代半ばの大規模な艦隊拡張まで待たなければならなかった。
 空母コムソモーレツの排水量は1万2千トンで、航空機を42機(戦闘機26機・攻撃機16機)搭載し、砲熕兵器として102mm連装両用砲と40mm対空砲を備える。速力は客船ベースの艦であるからか15ノットと低速である。ただし下の図を見ればよくわかると思うがどう見てもまともな方法ではコムソモーレツの大きさで42機も航空機が載るとは思えないので、これはおそらく最大限運搬可能な機数という程度の意味合いだと思われる。

(↑コムソモーレツ空母改造案)
 
 コムソモーレツで艦載機として考えられたのは攻撃機ШОН(ShON)で、これらはソ連最初期の空母艦載機であり、言い換えればイズマイルあるいは同時期のミハイル・フルンゼが改造計画の俎上に上がっていた当時はロシア国内に艦載機は存在して居なかったということになる。イズマイルの時には外国機の輸入を考えていたようだが、政府は輸入を断ったという。

(↑主翼を折りたたんだШОН)
 ШОНはЦКБが開発していた陸上襲撃機のТШ-2(TSh-2)を艦載機化したもので、1930年4月末から開発が開始され1931年に初飛行した。ドイツのBMW VIエンジンを単発で搭載し、680馬力の出力を有する。主翼は木製布張りで空母での運用の為に主翼は折りたためるようになっている。武装は5丁の7.62mm機関銃と400kg爆弾である。元々が陸上襲撃機だったШОНの機関銃は自衛用で旋回式の1丁を除く4丁が斜め下向きに取り付けられており、飛行しながら地上に機銃掃射するのに便利なようになっていた。
 ШОНの飛行性能は優秀であったがコムソモーレツの空母改造計画が中止されたため艦載機としての道は閉ざされてしまった。


ソ連空母建造前史2
【参考】
戦前のソ連空母〜実現しなかった計画たち
Библиотека ВМФ 「巡洋戦艦イズマイル」
istmat.info
(ソ連の空母〜歴史と戦闘での使用)